佐藤賢一さんの『遺訓』は『新徴組』の続編2018/01/12 07:16

 大河ドラマの『西郷(せご)どん』が始まって、いずこも西郷隆盛ブームの 感がある。 昨年11月号で最終23回を迎えた新潮社『波』連載の佐藤賢一さ んの小説『遺訓』だが、その連載が始まったのは一昨年、2016年1月号だった。  翌月、私は「佐藤賢一さんの小説『遺訓』と鶴岡<小人閑居日記 2016.2.23. >」を皮切りに、西郷隆盛と福沢諭吉のことを連続して書いた。

西郷隆盛の「征韓論」は「遣韓論」だった<小人閑居日記 2016.2.24.>

西郷と庄内を警戒する大久保利通<小人閑居日記 2016.2.25.>

福沢諭吉と西郷隆盛<小人閑居日記 2016.2.26.>

西南戦争への福沢の運動と、言論の自由<小人閑居日記 2016.2.27.>

『丁丑公論』と日本国民抵抗の精神<小人閑居日記 2016.2.28.>

福沢の西郷銅像建設趣意書<小人閑居日記 2016.2.29.>

『現代語訳 福澤諭吉 幕末・維新論集』<小人閑居日記 2016.3.1.>

『福澤諭吉事典』の『丁丑公論』<小人閑居日記 2016.3.2.>

 それはさておき、最初の「佐藤賢一さんの小説『遺訓』と鶴岡<小人閑居日 記 2016.2.23.>」で、こんなことを書いていた。

 「書き出しは「沖田芳次郎は新徴組の隊士である。」 新徴組は幕末、文久3 年に清河八郎が率いた浪士組の、新選組に次ぐ分れで、佐幕の雄藩だった庄内 藩の預かりとして、江戸の市中取締を担った。 戊辰の役で朝敵とされ、庄内 藩と一緒に江戸を払い、最後は官軍に下った。 明治6年の師走、じき7年、 沖田芳次郎は鶴岡で、士族の授産施設・松ヶ岡開墾場の社員になっていた。 庄 内藩は、明治2年の版籍奉還で、まず大泉藩、さらに4年の廃藩置県で、酒田 県となった。  「芳次郎は天然理心流を修めて、腕に覚えがあった。同じ新徴組にいた父の 林太郎も、免許皆伝の腕前だった。叔父など江戸の試衛館道場で、師範を務め たほどなのだ。それから京に上り、新選組を率いた沖田総司のことだ。」  ここで、私は引っかかった。 沖田総司は庄内藩だったっけ、と。 広尾か ら六本木へ行く道の途中、専称寺に墓があるのは知っていた。 調べると、陸 奥国白河藩士の沖田勝次郎とミキ(日野宿四谷宮原家の娘)の長男、江戸の白 河藩屋敷(西麻布)で生まれている。 ふたりの姉がいて、沖田家は、長姉の ミツが婿に「林太郎」を迎えて相続したという。 沖田総司が死んだのは、慶 應4年5月30日(1868年7月19日)である。 この「林太郎」と、小説の 林太郎は別人なのだろう。 新徴組にいた父の林太郎も、江戸生まれという芳 次郎も、別に白河藩士だったとしても構わないわけではあるが…。」

 佐藤賢一さんの小説『遺訓』は単行本が出版され、『波』1月号は刊行記念の 「いま蘇る西郷隆盛」特集として二つの文章が掲載された。 その一つ、文芸 評論家・末國善己さんの「現代社会に風穴をあける西郷隆盛の“遺訓”」を読ん で、私の「ひっかかり」が解けて、反省に変った。 佐藤賢一さんには、申し 訳ないことをした。 そこには、こうあった。 「山形県鶴岡市出身の著者は、 2010年に、新選組の沖田総司の義兄で、江戸を警護する庄内藩(現在の鶴岡市) 預りの新徴組隊士だった沖田林太郎を軸に幕末を捉えた『新徴組』を発表して いる。『新徴組』の続編ともいえる本書は、西郷の護衛役を務めた林太郎の息子・ 芳次郎を主人公に、西南戦争を清廉な武士の時代の終焉と位置付けている。」

 私は、佐藤賢一さんに『遺訓』の前編ともいえる『新徴組』があるのを知ら なかった。 その『新徴組』には、おそらく沖田林太郎について詳しく書かれ ているのであろう。 新徴組は、後で庄内藩預かりとなったわけで、もともと 浪士組だから、その隊士の多くは庄内藩士でなかったのだろう。 清河八郎が 庄内出身なのが頭にあって、それにひきずられてしまった。