十六回の改名で古今亭志ん生となる2019/02/05 07:28

 古今亭志ん生は「美濃部一家の歴史」にあるように、しばしば転居している けれど、芸名もたびたび変えている。 道楽をして、貧乏で借金に追われ、寄 席をクビになったりした、ハチャメチャな時代があったからだ。 『志ん生廓 ばなし』(立風書房)という本の巻末、小島貞二さんが編んだと思われる「古今 亭志ん生年表」で、その辺りを拾ってみる。

 古今亭志ん生、美濃部孝蔵は、1890(明治23)年6月5日(『志ん生・馬生・ 志ん朝 三人噺』は28日)、美濃部盛行(もりゆき)・てうの四男(四男一女の 末っ子)として出生。 父は元幕臣(祖父は八百石取りの槍の指南番)で当時 警視庁巡査、だから戸籍は「士族」、若いころ芸事が好きで初代三遊亭円遊(鼻 の円遊)とは遊び仲間だったという。 1901(明治34)年(11歳)下谷尋常 小学校4年(当時は4年制)卒業まぎわ、素行悪く退学、すぐ奉公に出される。  奉公先を転々とし、朝鮮京城の印刷会社へ小僧に出されたこともあるが、すぐ 逃げ戻る。 バクチ、酒などもこの当時覚えたという。 1905(明治38)年 (15歳)バクチ、酒、女郎買いなどの放蕩が続く。 さすがの父も、槍を持ち 出し、「この不孝者め、突っ殺してやる」などのひと幕もあり(大河ドラマにも あった)、家をとび出て、そのまま放浪生活に入る。

 1907(明治40)年(17歳)浅草富士横丁のモーロー車夫の家に居候してい るとき、すすめられて噺家を志し、運よく“名人”といわれた橘家円喬門下と なり、三遊亭朝太の名をもらう。

 1912(大正元)年(22歳)師匠円喬が亡くなり、自然に小円朝門下となる。  1921(大正10)年(31歳)このころ六代目金原亭馬生(後の四代目古今亭志 ん生)を第三の師匠としていて、9月、金原亭馬きんとなり真打。 この時ま でに、朝太から三遊亭円菊、古今亭馬太郎、全亭武生(ぜんていぶしょう)、吉 原朝馬(ちょうば)、隅田川馬石(ばせき)をへて、馬きんは七回目の改名だっ た。

 1933(昭和8)年(43歳)ポリドールより初めてレコードを吹き込む、古今 亭志ん馬の名の『元帳』(代わり目)。 この時までに、馬きんから、古今亭志 ん馬、小金井芦風(ろふう、この時は講談師)、古今亭馬生、柳家東三楼(とう ざぶろう)、柳家ぎん馬、柳家甚語楼を経て、志ん馬(二度目)と、都合十四回 目の改名。

 1939(昭和14)年(49歳)五代目古今亭志ん生を襲名。 この時までに、 志ん馬のあと、七代目金原亭馬生(二度目の馬生だが、前は古今亭)を経ての 志ん生襲名で、計十六回改名の新記録をつくる。  (矢野誠一さんは、甚語 楼が二度あったとして、十七回改名説だと、八木忠栄さんの『ぼくの落語ある 記』(新書館)にあった。)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック