『二十五年後の読書』<等々力短信 第1116号 2019.2.25.>2019/02/25 07:07

元麻布の邸宅の地階にあるカクテルバーは、上等な隠れ家の雰囲気を愉しめ る。 エレガントに暗く、ラウンジミュージックが静かに流れている。 バー テンダーのすすめる黒ビールから始めて、弱めにしてくれたジャクソンから、 華奢なカットグラスのグレタ・ガルボを頼む。 往年の大女優の名をとったカ クテルは結構強い。 マレーネ・ディートリッヒもあれば、ローレン・バコー ルやバーグマンもあって、強烈な個性をアルコールの度数の高さで、雰囲気を 色調で表現すると、蠱惑的なカクテルになる。

 マニラから小型双発機で1時間半、スールー海に浮かぶクーヨー諸島の小島、 真っ白な砂浜に沿ってカシータと呼ばれるコテージが並んでいる。 室内は一 流ホテルのように美しく、常夏の情緒に溢れ、客のプライバシーに配慮しなが ら数人のスタッフがつく。 小島の周囲はラグーンの浅瀬で、無闇に広い平穏 があった。 大理石の浴槽に身を浸すと、島から島への運搬船だろうか、窓か ら沖をゆく船影が見えて長閑である。

私は、ビール一口で真っ赤になる下戸だ。 ああいう重力の法則に反するも のには乗るなと、ゼミの恩師に教えられたから、飛行機には乗らないようにし ている。 そんな私が、元麻布のカクテルバーやスールー海のカシータを体験 できるのは、読書のおかげである。 乙川優三郎さんの『二十五年後の読書』 (新潮社)に、三日間没入した。

もともと本読みだった二人が巡り合ったのはパラオのアラカベサン島、響子 が27歳の記者で、谷郷は35歳のカメラマンだった。 響子は新装した日系ホ テルの取材、谷郷は雑誌特集の撮影で来ていた。 仕事を終え、美しい珊瑚礁 の、千種を超す色鮮やかな魚のいる深い海でダイビングを体験した響子が、突 然パニックに陥ったのを助けたのが谷郷だった。 その夜、夕食を共にすると、 写真の秘術を面白おかしく語る谷郷は生き生きとしていて愉しく、誘われたバ ーでチチというココナッツミルクの白いカクテルを知る。 日本語が残るパラ オで「乳」を連想したが、シシ、ブラウスの胸のフリルを指すフランス語が語 源だった。 東京でも逢瀬を重ねるようになるが、二年ほどして谷郷が資産家 の次男で、妻帯していると知る。 谷郷は流行作家・三枝昂星になった。

気が付くと、浅はかな日々は二十年以上も続いているのだった。 響子はエ ッセイストになり、辛口の書評も書くようになる。 作家と書評家の恋だ、文 章論や文学論、読書の愉しみが、ちりばめられている。 老境のスランプに陥 った谷郷は、ベネチアで病床にある画家の妻のもとへ去り、書き下ろしの新作 に挑む。 生きる気力を失った響子はスールー海へ。 そこへ編集者が仮綴本 の書評を依頼に来る。 著者は大胆な仕掛けを仕組んでいた。 もう一冊の著 書が、ほとんど同時に出版されたのだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック