柳家喬太郎の指物師名人長二より「仏壇叩き」2019/04/06 07:28

 指物師清兵衛の弟子で、不器用長二、若いが名人で、かみさんも弟子もとら ない。 本所で親方の一番下の弟子と暮らしている。 長二さんを呼んで来て くれないか。 それが、来てくれない。 行ってみると、かんなっ屑の中で煙 草を喫っている。 蔵前の坂倉屋助七だが…。 顎も上げないのか、私が坂倉 屋だ。 もったいねえや、兄貴、いい出来だ。 書棚を壊してもらおう。 出 来栄えが気に入らないと、壊してしまう清廉潔白な不器用長二。 お取込みの ところ、ごめんなさいましよ、蔵前の坂倉屋助七ですが…。 兄貴、旦那がわ ざわざ見えています。

 親方にお願いがあって参りました、仏壇を拵えて頂きたい、三宅島の桑を五 十枚ばかり仕入れましたんで。 ゆくゆくは手前の入るもの、万一火事の時は 持ち出す、頑丈一式、六百年は保つ、何があっても壊れない仏壇をお願いした い。 図面は、持って参りました。 少しばかり時を頂いて、出来上がってお 知らせするまで、お待ち頂きたい。 まず、板を見ましょう。

 わくわくして待つが、半年が経つ。 七か月、知らせが来る。 こちらで納 めさせて頂きます。 拝見します、これですか。 お島や、これは娘で、下の 倅は道楽者でして…。 これは、これは、頭(こうべ)が垂れます。 中を拝 見、死ぬのが楽しみになる。 こいつは一番下の弟弟子で兼松、雇いの婆さん に煮炊きをさせて、かみさんは持たない、かみさんのことをよく言う者はいな い、(客席を見回して)半分くらい、敵に回したよ。 道楽は、酒、博打、女、 どれも面白いと思ったことはない。 正直なのに貧乏な人をみると、残ってい る金をくれてやるのが、唯一の道楽で。 お島、結構なお心掛けだな。 長二 は、お島の顏を見る。 武家奉公にやるんで、いずれ嫁入り道具を、親方にお 願いしたい。 この仕事が終わったら、足の疵で悩んでいる兼松を連れて、湯 河原へ湯治に行こうと思っています。

 この仏壇、おいくらで? 六十と四本釘を使いましたが、とっ百年後まで、 残る。 こたびは、百両で。 ハハハハハ、不意をつかれたよ、こんな。 ご 冗談抜きで、おいくら。 ですから百両で。 本気で? 百で、ござんす。 板 は、こちらから出ているんだよ、手間賃だけで百両かい、恐れ入ったね。 清 廉潔白、不器用長二、足許を見やがったな、法外な。 百の仕事だから、百。  冗談じゃないよ、そんな馬鹿な話はねえ。 とっ百年後まで残るという注文通 り、外から打ち据えたくらいじゃあ、びくともしない。

 弱りましたな、途中でいい才槌があったので、買って参りました、打ち据え て下さい。 お父っつあん、お父っつあん、お仏壇です、罰が当たります。 坂 倉屋助七、渾身の力で、めったやたらに打ち据えた。 釘一本、緩むもんじゃ ない。 エイッ! エイッ! 水を一杯おくれ。

 親方、恐れ入りました、おっしゃる通り、さすがのお仕事です、申し訳ない 事を申し上げました。 手を上げて下さい、百の仕事が、お分かりでしたか。  百両でも安い、ぜひ、これを納めて下さい。 傷が大層付きました。 七か月、 八か月、一年先、また改めてお納めいたします。 傷だらけなのがよいのだ。  子々孫々まで、私が心根の卑しい男だったか伝えたい、戒めのためだ。 林大 学頭様のお出入りだ、それを一筆書いてもらおう、これを納めて頂きたい。 よ ござんす。 百両でも安い、千両差し上げたい。 百両頂ければ結構です。 手 間の百両、湯河原に湯治に行かれるそうで、祝儀として五十両差し上げたい。  百の仕事は、百の仕事だ。 私の気持だ。 百の仕事に、百五十いただく、そ ういう卑しい人間じゃない。 これからも、よろしく。

 長二と兼松が、湯河原温泉へ湯治に行き、物語が大きく展開する三遊亭圓朝 作「指物師名人長二」より「仏壇叩き」の一席で…。

桜の皇居乾通りの通り抜け2019/04/07 08:10

 4日、皇居の一般公開、乾通りの通り抜けに初めて行って来た。 9時から というのに、地下鉄大手町駅のD2出口を出たのが9時半頃、沢山人の集まっ ている方へ向かって歩いていた。 少し腰の痛い家内を支えて歩いていたら、 宮内庁の腕章をした若い人が声をかけてくれ、近道がありますからと、ご親切 に言ってくれる。 バイパスをして、荷物検査を経て、一般の行列に交り、坂 下門へ。

 時間が早かったせいか、それほどの混雑ではなく、ゆったりとしている。 宮 内庁の庁舎の前から、これが一般参賀で行く方かと、宮殿を覗く。 桜はそこ ここにある。 イロハモミジなどの芽吹きが美しい。 右手の濠に沿って、乾 門までの道が延びているのだが、濠の向うは以前行ったことのある皇居東御苑 で、松の廊下から天守台へ向かうあたりだろうと想像はつく。 しばらく進む と左に道灌濠、ちょうど黄色い山吹が咲いていて、月並みだが落語「道灌」に ある太田道灌の故事を思い出す。 落語だと、こうなる。

太田道灌が狩座(かりくら・野駆け)に行き、にわかの村雨に、あばら家に 雨具を借りに行く。 16、7の賎の女(しずのめ)が、山吹の枝を差し出した。  道灌がわからずにいると、家来の中村勘解由(かげゆ)という者が、兼明親王 (かねあきらしんのう)のお歌<七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき>を教えた。 蓑と、実の、をかけた断わりだと。 道灌は、余 もまだ歌道に暗いな、と嘆き、ご帰城になった。 千代田のお城だ、後に徳川 家康がその中古物件を買ったが、安かった、家康というぐらいだからな。 道 灌は、のちに日本でも有数の大歌人になった。

 その先だったか、左手の通り沿いに、局門という門があった。 お局様が住 んでいたのだろうか。 乾門までは、案外、距離がなく、すぐに出口になった。  乾門は、昔、父親がこの時期に油絵に描いていたので知っていた。 もちろん、 内側でなく、外側からだったが…。

 12時にアーバンネット大手町ビルのLEVEL XXI東京會舘ベラージュのラン チを予約していたので、時間があった。 東京国立近代美術館の『美術館の春 まつり』「あなたのとなり、春となり」(4月7日まで、7日は無料観覧日)を 見ることにした。

「MOMATコレクション展」、「杉浦非水展」2019/04/08 07:17

 東京国立近代美術館では、「所蔵作品展MOMATコレクション」と、「イメー ジコレクター・杉浦非水展」を見た(ともに5月26日まで)。 企画展「福沢 一郎展―このどうしようもない世界を笑いとばせ」は失礼したら、65歳以上は 無料だという。 有難く入館した。

 「所蔵作品展MOMATコレクション」では、のっけから安田靫彦《黄瀬川陣》 と、原田直次郎《騎龍観音》に圧倒される。 つづいて、萬鉄五郎《太陽の麦 畑》、岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》、関根正二《三星(さんせい)》、 中村彜《エロシェンコ氏の像》、古賀春江《海》、安井曽太郎《金蓉》、松本竣介 《並木道》、和田三造《南風》と、そして荻原守衛《女》、高村光太郎《手》と、 教科書で見たことのあるような名高い絵や彫刻が並んでいて、大満足だ。 さ らにはセザンヌ《大きな花束》、マティス《ルネ、緑のハーモニー》、パウル・ クレー《花ひらく木をめぐる抽象》がある。

 途中「眺めのよい部屋」というのがあり、通り抜けしてきたばかりの皇居や 周囲のビルの春らしい景色を眺める。 その後の展覧会では、名前も知らなか った織田一磨の連作リトグラフ《東京風景》(1916(大正5)年・1917年)、《画 集銀座》第一輯・第二輯(1929(昭和4)年)が興味深かった。 《東京風景》 では、目白坂下、柳橋之雨、駿河台、築地河岸、上野広小路、上野之桜、芝御 霊屋、《画集銀座》には、銀座千疋屋、銀座松屋より歌舞伎座(遠望)、シネマ 銀座、銀ブラがあったからだ。 この銀座千疋屋、銀座八丁目の店頭だろうか、 と思った。 織田一磨(1882(明治15)年~1956(昭和31)年)は、洋画を 川村清雄、石版画をオットマン・スモリック、金子政次郎に学んだ。 「自画 石版の織田一磨」として知られるというが、私は知らなかった。

 「イメージコレクター・杉浦非水展」、おそらく三越や地下鉄のボスターはご 覧になったことがあるだろう、図案家の杉浦非水は日本のグラフィックデザイ ンの創成期に重要な役割を果たした。 私は、辛うじて、杉浦非水を知ってい た。 杉浦非水は、福沢桃介の義弟で、2011年11月12日、福澤諭吉協会の 史蹟見学会で、川越に福沢桃介生家岩崎家の岩崎昭九郎氏宅を訪ねて、杉浦非 水の作品を見せていただいたことがあったからである。

  福沢桃介、わが国初の地下鉄を計画<小人閑居日記 2012. 11. 28.>

 福沢桃介と杉浦非水・翆子夫妻<小人閑居日記 2012. 11. 29.>

 東京国立近代美術館は、遺族から一括寄贈された杉浦非水のポスター、絵は がき、原画など700点以上を所蔵している。 この展覧会では、ポスターはも ちろん、数多く手がけた表紙デザイン、非水が手元に残した海外の雑誌やスク ラップブックなどを展示し、16ミリフィルムに残した川越の祭その他の映像も 公開している。

吉右衛門と高浜虚子「ホトトギス」2019/04/09 07:27

 3月の末に書いていた関容子さんの『中村勘三郎楽屋ばなし』だが、「兄、吉
右衛門のこと」の章に、俳句のことが出てきたので、書いておきたい。 大分
前に、新橋演舞場で「秀山祭大歌舞伎」を観て、「秀山」が初代吉右衛門の俳号
で、初代が「ホトトギス」で師事した高浜虚子は、吉右衛門で名が通っている
のだから吉右衛門のままがいいでしょうと言ったとかで、『吉右衛門句集』など
句集三冊を刊行していると書き、その句を何句か紹介してはいた。 
「秀山祭」と初代吉右衛門の俳句<小人閑居日記 2010. 9.19.>
http://kbaba.asablo.jp/blog/2010/09/19/

 『中村勘三郎楽屋ばなし』で、歌舞伎俳優と俳句の関係が深いことがわかる。
十七代目中村勘三郎の父、中村歌六は本名を波野時蔵、俳号を獅童といったと
いう。 大河ドラマ『いだてん』で金栗四三の兄をやっている中村獅童に通じ
ているのだろう。 初代吉右衛門は、句会で披講のときに自分の句が読み上げ
られると、「秀山」を使わずに「吉右衛門」で通していたとある。 吉右衛門の
俳句が、「ホトトギス」で初めて高浜虚子に採用されたのは、昭和7(1932)年
で、
  家土産(いえづと)にかぼちやもらひし夜汽車かな
の一句だった。

 昭和8年1月28日の「日記」には、高浜虚子と吉右衛門、その門弟二、三
人とで伊豆へ吟行している。 「大磯より乗る。……宿(露木旅館)へ着く。
小生は早く御膳、御膳と、女中に頼む。部屋は三階、海の真中に見える島は何
島ですかと聞くと、先生があれは初しまですという。七三郎が椿の産地です。
先生が初しまというが宿の者は初じまといいますと、話している。暫く皆は
句帳を手にして無言である。庭の前に広いベランダがある。海が大きく見ゆる。
この家では一番眺めの良い座敷に違いないと思った。床の間には大伍(池田(池
田弥三郎さんの叔父))さんと坪内(逍遥)先生の、仁左衛門(先々代)の片桐
の画賛半折が掛けてある。」

 昭和12年になると、俳人としての地位もかなり固まったらしくて、虚子の
出身地松山での六月句会に選者をつとめている。
 「……ホトトギス派の俳人が披講をしたり、我ら一ぱし俳人になりすまして
いたのもおかし。その時の心持は役者で来たより、俳人が句作旅行に来たとい
う感があって、何ともいえぬおかしさ。……披講の時の先生の真似をして沢山
取って上げた。皆々大喜びで引き上げた。」

 昭和18年には、芭蕉翁百五十年を記念して虚子の『芭蕉嵯峨日記』を劇化
上演した芝居で、俳聖芭蕉を演じた。 三幕目、蚊帳の中に蒲団が三つ敷いて
あり、芭蕉を真中に、去来(男女蔵)と凡兆(三津五郎)が寝る。 真中の蒲
団だけが木綿で、両側はスフであるらしく、男女蔵と三津五郎が冷たい、冷た
いと言う。 そこで、一句。
  凡兆と去来のふとん冷くて

 (虚子選となり)「ホトトギス」に採用が決ると、雑誌に出る前に誰かが本人
に知らせることがあったらしい。 あるとき吉右衛門の句が四句出ることにな
ったというんで、こりゃあもう前代未聞のことだって、お祭り騒ぎになった。 
当時大磯にいた、吉右衛門のところに友達や弟子たちが集まって、大宴会が始
まろうとしていたところに、十七代目中村勘三郎宛の電報が届いた。 「キミ
ノクガホトトギスニ五クデタ」。 兄の吉右衛門はたちまち顔色を変えて、
「な、なんだって、お前は日頃ちっとも勉強なんかしないで、いわばまぐれじ
ゃないか。冗談じゃねえ。棚からボタ餅どころか、あくびした口へボタ餅じゃ
ねえか」って、大変なお冠り。 もう御馳走どころじゃなくなって、宴会はお
流れになった、という。 その時の十七代目の五句、ちゃんとソラで言ってい
る。
  つくばひに水なき夏の旅籠かな
  ホタル籠吊ってくれたる宿屋かな
  中庭に夏の月あり佐賀の宿
  草いきれ立看板は吉右衛門
  打掛をかけて昼寝の源之助

御曹司派と三階派、中村小山三2019/04/10 07:20

 歌舞伎のことを描いた落語、例えば柳家小満んの「中村仲蔵」で役者の階級 と年収の話が出る。 「千両役者」は千両二分二朱一本(二百文と言った。一 本は銭緡一本に差した銭100枚、1文銭で100文、4文銭で400文だそうだか ら、二本だったか?)。 千両役者は江戸三座で、各一、二名。 名題は、四、 五人、500~300両。 名題下、相中は、30~20両。 中村仲蔵は子役だった が15,6歳で一旦辞め、どうしても芝居がしたくて19歳で改めて旧師匠伝九郎 の所へ行く。 中村座の一番下っ端の立役、年7両の稲荷町(楽屋に祀ってい るお稲荷さんの奥の暗い部屋)から散々苦労したが、団十郎の声掛かりで中通 り(名題下の三階級の中位)に上がって大部屋へ。

 大部屋に入ると、台詞がつく。 「申し上げます。○○様、お着きでござい ます」 中通りになると、体は暇になる。 もう世帯を持っていたので、家で 下駄の下拵えの内職をしていた。 ある時、ご家老役の団十郎に、「申し上げま す。」と言って、あとを忘れた。 団十郎の所へつかつかと寄り、耳元で「親方、 台詞を忘れました」と言うと、「心得た。これへと申せ」 謝りに行くと、「役 者は機転が利かなくちゃあいけない、よくやった。いい役者になれ」と言われ た。 すぐ内職を断わった。 それからは、ひと様の芝居をよく見て、芸熱心、 芸気違いといわれるようになり、29歳で名題に昇進した。 大部屋出ではなれ ないはずの名題まで出世したのは、初めてのことだった。 屋号は栄屋、俳号 は秀鶴という。

 現代の歌舞伎で、この役者の階級が、どうなっているのか、その一端が、関 容子さんの『中村勘三郎楽屋ばなし』で垣間見られた。 「友達のこと」の章 で、十七代目中村勘三郎が子役のころのいたずら仲間として、志げると琴次郎 を挙げている。 二人とも本来は六代目菊五郎の弟子の身分だったのだが、六 代目の引き立てがあって、それぞれ後に志げるは西川流家元西川鯉三郎、琴次 郎は尾上流家元尾上菊之丞になっている。 十七代目は、「ぼくはこれでも御曹 司派になるんで、封建的なことを言えば一緒に遊ぶような身分じゃない。しか しぼくはどちらかと言うと三階派の子役のほうに親しみを持ってたし、向うも そんなぼくを煙ったがらなかったからね。三人でよく遊んだものです。」と語っ ている。 あるとき鯉三郎の志げるに、「坊ちゃんなんて呼ばないで、波野さん て呼んでよ」と言うと、翌日そっと「昨日はほんとにどうも有難う。嬉しかっ たです。それならぼくのことは星合と呼んで下さい」なんて手紙を渡したとい う。

 十七代目の大阪時代、九州の宮崎に旅興行に行った。 一番荒れているころ で、相変わらず酔っ払っていて、弟子の蝶吉(小山三…長く中村屋に仕えた人 で、十八代目や現勘九郎・七之助に密着したテレビでよく見た)をつかまえる と、「おい、花札やろう」って言った。 「わたし、花札なんか知りません」「そ んなことはないよ、三階で皆やってるじゃないか」「でもわたしは知りません」 なんて押し問答になったんで、十七代目は癇癪を起して、そばにあった置時計 をいきなり投げつけた。 するとそれが障子を突き抜けて、下を流れている川 にポチャンと落っこっちゃった。

 中村屋のあるところ常に小山三がある。 六歳が初舞台で、そのとき十七代 目は少年だったが、小山三の顏がカニに似ているというので、この幼い弟子に 書き抜きを包むための、黒地に白の絞りでカニの模様の美しい袱紗を贈ってく れたことを、小山三ははっきり覚えているという。

 昭和57年4月、新橋演舞場の新装開場の杮葺(こけら)落しの日、十七代 目はめでたく「式三番(しきさんば)」の翁をつとめたが、幕が開くと翁につく 後見が、厳粛に火打石を打って舞台の四隅を浄めて回る。 空気のピンと張り つめた客席に向って、最後に正面切って立ち、石を打つ小山三の晴れ姿が、関 容子さんには、ボッとにじんで見えたという。

 昔、市村座の三階には、真ん中に囲炉裏の切ってある六畳ほどの部屋があっ た。 そこにはいつも大鍋がかかり、「菜番(さいばん)」と呼ばれる当番が煮 炊きをして、幹部以外の役者たちはそこへ来て、めいめい食事をしたものだそ うだ。 一階ごとにそれぞれの長(おさ)のような役者が自然に決り、目を光 らしているから、大部屋の人たちの鏡台前も、キチンとかたづいていた。 中 二階は女形ばかりいるところで、昔の役者は女形のことを「お中二階」と呼ん だものだという。