大磯の恩人〔昔、書いた福沢68〕2019/06/23 07:54

                大磯の恩人

      <等々力短信 第715号 1995(平成7).8.15.>

 『文藝春秋臨時増刊 短篇小説傑作選 戦後50年の作家たち』の冒頭は、 井上靖の「グウドル氏の手套(てぶくろ)」である。 ある秋、井上靖は初めて 長崎を訪れ、明治時代の二人の物故者の遺物(かたみ)を偶然目にする。 一 つは丸山の料亭Kにあった松本順の筆蹟になる横額で、もう一つは坂本町の外 人墓地のE・グウドル氏の墓だった。 二人は、井上靖の作品にしばしば登場 する曾祖父の妾、かの女(郷里の伊豆の家で井上少年を育てた人)の記憶の中 に美しく生きていた。 松本順は初代の軍医総監を務めた人物だが、井上の曾 祖父潔の先生だったから、おかの婆さんは、この世で最も尊敬すべき人物とし て、幼い井上の心に「松本順」の名を吹き込んでいたのであった。

 「松本順」どこかで聞いたことがあった。 幼名を松本良順、嘉永3年幕命 で長崎に留学、といえば、福沢諭吉との関係だろうか。 年齢は福沢より二つ 上だが、長崎留学は福沢より4年ほど早い。 福沢諭吉全集の索引から、荘田 平五郎宛書簡に松本の名前が一度出て来るのと、福沢の「大磯の恩人」(全集2 0巻383頁)という文章が見つかった。 福沢が箱根湯元の福住旅館にしば しば保養の小旅行をしていたことは知っていたが、大磯の松仙閣にも避寒に行 っていたようで、明治26年2月の滞在中に、思い付いたままを記して松仙閣 の主人に渡したのが、この「大磯の恩人」だという。

 大磯が夏は海水浴場、冬は気候が温暖なため避寒地として知られ、今日の繁 栄を享受できるようになったのは、大磯の海水空気が健康のために有益である と首唱した医学先生松本順翁のおかげである。 しかし大磯の人々が、大磯の 自然を利用することを思い付いた人のことを忘れているようなのは残念だ。  地元有志の人々が何とか一案を考え、今は引退した松本順翁の余生を安楽に 悠々自適に消光できるように工夫することが肝要ではないか。 翁と面識はあ るものの深い交際はないが、聞くところによると、磊落な性格で金銭のことに はおよそ淡泊だそうだから、有志の人が心配しても、面倒だと謝絶されるかも しれない。 だが「恩を忘れざるは人生徳義上の当然なり」「亦是大磯地方の栄 誉を全ふして世間の侮を防ぐの道なるべし」という、福沢らしい文章である。

 昭和4年、松本順の頌徳碑が、大磯の海岸に町民の醵金で建てられた。 題 字は犬養毅、碑文は鈴木梅四郎、共に福沢門下生である、と福沢全集の註にあ る。

 おかの婆さんの記憶の中に「美しい在り方」で生きていた人物の一つの傍証 である。