どのように東條英機内閣は誕生したか ― 2021/04/30 07:11
東條英機内閣の誕生のあたりから詳しくみてみよう。 近衛は10月16日に辞意を固め、次期首班はこのような苦境の時なので、皇族内閣がいいのではないかと申し出た。 内大臣の木戸幸一は近衛、東條の双方から、東久邇宮内閣で日米関係の正常化を図るべきで、臣下の者では事態の解決が難しいとの見解を伝えられている。 木戸は東條に天皇が東久邇宮内閣に消極的であると伝え、9月6日の御前会議の見直しと、今は陸海軍の一致が必要だとの認識で折り合いがついた。 東條は木戸には、9月6日の決定を見直すとの意思を伝え、総理の近衛には逆の意思を伝えている。 木戸に伝えるということは天皇に伝えるという意味も持っている。 明らかに二枚舌を使ったことになる。
10月17日、近衛内閣の辞任を受けて、次期首相を決めるための重臣会議が開かれた。 出席者は若槻礼次郎、岡田啓介、広田弘毅、阿部信行、林銑十郎らの首相経験者、そして枢密院議長の原嘉道と木戸である。 木戸が出席者の驚くことを言い出す、「今必要なのは、陸海軍の一致と9月6日の決定を再検討することだ。そこで、東條陸相に大命降下してはどうか。その場合は陸相も兼ねてもらい、陸軍を抑えさせるのだ」と。 反発した重臣もいたが、木戸の説得で納得した。 木戸が東久邇宮内閣に反対したのは「臣下に人なきか」となるのを案じたからであり、日米戦に突入して予期せざる結果になれば「皇室は国民の怨府(えんぷ・人々の怨みの集まる場所)となるの虞れ(おそれ)」があるからだと日記に書き残している。 同時に、客観的に見て近衛に匹敵する首相候補者がいないことも事実だと認めている。 そこで東條を使い、その東條に「国策をもう一度見直すように」という天皇の言葉を伝えて、その枠の中での首相にしようと考えたのだ。 天皇は東條に「卿に内閣組織を命ず」と伝えた上で、海相とともに協力態勢をつくって事に当たれ、とも命じている。
10月18日、東條内閣は誕生し、およそ50日後に太平洋戦争が始まったことになる。 首相に推されるにあたって求められた天皇からの三条件、「9月6日の御前会議を白紙還元」「海軍との協力」「対米戦強硬派の抑圧」は果たせなかった。 東條は歴史的には主権者である天皇の意思に沿うことができなかったのだから、相応の責任は負わなければならない。 天皇の在位理由である「皇統を守る」という目的のために「戦争」という手段を持ち込んだ責任は重い。
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