小野梓日記の立憲改進党結党過程と、福沢の構え2022/06/05 07:23

 「明治十四年の政変」後、「立憲改進党の結成をめぐる大隈と福沢」。 当時、政府の中でも政党をつくる動き、計画があったが、政変で挫折、在野から政党をつくることになった。 立憲改進党の結党過程が、小野梓「留客斎日記」(『小野梓全集』五)に詳細に記録されている。

 <第一段階>1881.10.25~1881.12.17 大隈・小野梓(+青年学徒)を中心とする結党構想の検討・成立。 この段階では三田派の動向は不明。

 <第二段階>1882.1.31~3.14 基本文書の起草から趣意書の発表まで。 旧高官層+嚶鳴社+三田派の連携。  1月31日、大隈邸集会、河野敏鎌・前島密等と我が政党のことを議す。小野、諸規則の起草を引き受ける。 2月17日、小野、宣言等を再校し、矢野文雄・肥塚龍に送る。矢野から手紙。島田・肥塚に返事。 3月14日、立憲改進党の宣言を新聞に発表。

(旧高官層…河野敏鎌(とがま)は、土佐藩士、新政府の文部卿をなどを務めたが、政変で下野。 前島密は、越後生まれ、幕臣前島家を継ぎ、民部省、大蔵省に勤務、郵便制度の調査のためイギリスに出張、駅逓頭(えきていのかみ)を務めた。 嚶鳴社…1874(明治7)年沼間守一らが法律講習会を創立、78年に嚶鳴社と改称した都市民権結社。島田三郎、肥塚龍、波多野伝三郎、末広鉄腸(重恭)、草間時福ら。 三田派…矢野文雄。)

 <第三段階>1882.3.17~4.16 結党の具体的な準備から結党式まで。  3月22日、小野、大隈・河野・前島と明治会堂へ行く。成島柳北・沼間守一・島田・矢野を訪う。 3月24日、小野、大隈を訪い話す。明後日、福沢を訪うことを約束。(だが、26日に記述はないらしい) 3月28日、小野、牛場卓造を慶應義塾に訪う。帰路、矢野・牟田口元学を報知社に訪い話す。(牛場卓造は、1874年慶應義塾卒業、1880年内務省に出仕、統計院少書記官。政変で罷免。 牟田口元学は佐賀藩士、戊辰戦争の官軍での働きを認められ、維新後、工部省、文部省、農商務省などに出仕するが、政変で下野。) 4月16日、立憲改進党結党式を明治会堂で挙行。大隈を総理(党首)とし、大隈が掌事に小野・牟田口・春木義彰を指名。

 ○立憲改進党結党と福沢の構え。 1882年1月24日、荘田平五郎宛福沢書簡。(『福澤諭吉書簡集』三) 「昨年来世状様々ニて、遂ニ或ハ本塾之本色を失ふの恐なきニあらず。塾之本色ハ元来独立之一義ある而巳(のみ)。敢て世ニ所謂政党抔を学ぶものニあらず。政党ニあらず、商人ニあらず、又官途熱進[心カ]之者ニもあらず。(中略)漫然たる江湖之目を以て之を観れハ、我義塾本部も、何か今之社会ニ対して求る所ある者之如クニ思はるヽハ、俗ニ所謂割ニ合はぬ始末ト存し、」

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