江の島繁栄、PR活動と寺から神社への変わり身2023/01/11 07:40

 江島神社(えのしまじんじゃ)は、明治の神仏分離までは弁財天を祀っており、江島弁天・江島明神と呼ばれ、番組では辺津宮(へつみや)の奉安殿にある、作られた時期が違う二つの弁天様を見せていた。 八臂(はっぴ)弁財天、八本の手にそれぞれ武器を持つ武の神様、源頼朝が作らせ、北条時宗、徳川家康も信仰したという。 妙音弁財天、裸で琵琶を弾く姿、音楽と芸能の守護神、さらには雨乞いに、民間の強い信仰を集めた。 開運、除災、除病などが御利益とされ、江戸時代以後、江戸の歌舞伎役者や吉原など花街関係者、建設業者、木材商、薪炭商の参拝が多く、その人々の寄進した石や銅の大鳥居が今も見られる。 仲見世通りの入口の銅の鳥居に、吉原の扇屋や大黒屋、松葉屋の名前があったので、タモリが鶴瓶に材料を提供して新作落語にし、歌舞伎にもなったという、「扇屋花扇」の話をして驚いていた。 吉原には旦那衆、文化人、芸能人が通い、江戸の文化をつくっていたので、江の島を舞台にした「弁天小僧」などの芝居も生まれた。

 地元の人たちがお祭の行列「唐人囃子」を披露していたが、チャルメラや手持の太鼓なども使い、江戸期に吉原の夏の一大イベント「吉原俄(にわか)」で練り歩き江の島のPR活動をしたもので、当時の絵ではジャガード織(シルク)の衣装や帽子などを含め、明らかに朝鮮通信使の行列を模したものだった。

 社伝によれば、欽明天皇13(552)年、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝わる。 『吾妻鏡』には寿永元(1182)年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とする説もある。 神仏習合により金亀山与願寺という寺になった。 岩本坊が総別当として全体を管理し、江島寺とも称した。 慶安2(1649)年に京都・仁和寺の末寺となって、院号の使用が認められ「岩本院」と称した。 「岩本院」の御師が、極小弁財天像を持ち、お札を配って、縁起や御利益を説いて回り、参詣者を集めた。 大口顧客としての大名や両替商を接待した富士見の間からは、相模湾と富士山の絶景が望めた。

 明治元(1868)年の廃仏毀釈により三重塔のほか多くの仏教施設や仏像などが破壊された。 明治6(1872)年、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、宗像三女神を祀る。 僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、「岩本院」は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称した。

 ブラタモリのお題「なぜ江の島は賑わうのか?」の答は、「唐人囃子」や御師のPR活動とともに、鎌倉時代からの行楽地、伊勢参りより簡便な観光地だったことを挙げた。