修二会(お水取り)が1272回続く理由 ― 2023/07/06 07:04
BSプレミアムの『新 街道をゆく「奈良散歩」』が、とてもよかった。 高島礼子が巡り、司馬遼太郎の「奈良散歩」を、いろいろな関係者と会って、共に朗読する。 東大寺の修二会(しゅにえ・お水取り)は、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が大仏開眼の天平勝宝4(752)年に始めてから、一度も絶えることなく続いて今年1272回目を迎える「不退の行法」だ。 兜率天(とそつてん)の一日は、人間界の400年、それで修二会を勤める練行衆と呼ばれる11名の僧侶は、走りまわり、五体投地して、悔過(けか)する。
練行衆は序列や役割によって、職(しょく・四職(ししき))と、平(ひら・平衆(ひらしゅう))に分かれる。 今年、平衆の五番目「中灯」(記録係)を務め、6回目の練行という清水公仁さんが、高島礼子を案内した。 二月堂での修二会の本行は3月1日~14日間だが、それに先立って練行衆には「別火」と呼ばれる前行(準備)の期間がある。 東大寺戒壇院の庫裏を別火坊として、全員が泊り込む。 前行(準備)とは、精進(身を浄めること)、別火坊とは、別の火で煮焚きをする場所。
高島礼子は、さらに練行衆の職の最高位、「和上」の上司(かみつかさ)永照さん、30回目の練行、にも話を聞く。 練行衆は、ここで 2月23日に400個の椿の造花をつくる。 紙衣(かみこ)のころもの反物もつくる。 楮(こうぞ)の皮で漉かれたぼってりと厚い和紙、仙花紙をシワシワにして柔らかくし、木の棒に巻きつけていく。 節を抜いた竹に巻き、きゅっと縮めていって、開くとちりめん状のシワになって破れにくくなる。 毎回、こうして紙衣をつくり、2月26日になると、これを着る。 すると、生活が厳しくなる。 「豊島(てしま)ござ」の上でしか座れない。 外に座ると、穢れになり、退場となる。
練行衆は、2月末になると、修二会の期間寝泊りする参籠宿所に入る。
ここで、ふだん北の茶所に展示してある、大松明(たいまつ)の説明。 ふつうの大松明は、長さ6メートル、40キログラム、籠松明はその1.5倍の60キログラムもある。 3月12日、二月堂の外縁を大松明を持って駆け巡る。
3月13日午前2時、お水取りが始まる。 二月堂下の閼伽井屋(あかいや)という井戸(若狭井)から浄水を汲み上げ、お香水として本堂へ。 この水は、飲めば健康になる。 お堂の中では、火の行・達陀(だったん)が行われる。 松明を掲げた火天と、射水器を手にした水天が、せめぎ合う。 これは悔過(けか・過ちを悔いる)法要。
上司永照さんは、悔過法要を、こう説明する。 例えば、過剰なエネルギーの消費とか、気候の変動、そういうことを反省する。 なぜか。 春を迎える、季節が季節通りにやって来るということがないと、私たちは生きていけない。 高島礼子は、一年間の罪を悔い改めなければ、春は迎えられない、ということですか、と。 上司永照さんは、逆に言えば、自然の災害や戦争が各地で起こっている。 我々が悔過しているけれども、足らないのじゃないか。 祈りや願いが、届いてないじゃないかということですよ。 そのために続けていくしかない。 大仏開眼の年(天平勝宝4(752)年)に始まり、今年1272回を迎えた修二会を。
「奈良散歩」実忠、兜率天へ行き修二会を始める ― 2023/07/07 07:05
「奈良散歩」が手元にないので、本棚の司馬遼太郎『街道をゆく 人名・地名録』(朝日新聞社編・1989年)から、関係個所を読む。
実忠(じっちゅう 生没年不詳 8世紀) 「良弁(ろうべん)が高弟たちのなかから実忠という天才をえらんで目代(もくだい。実務上の長)にし、さらに権別当(ごんのべっとう。副長官)にすることがなかったら東大寺はよほど規模のちいさなものか、あるいは中身にす(傍点)の入った寺になっていたかもしれない。良弁の魅力の一つは、実忠の才を見ぬき、庶政いっさいをかれにまかせたことである。」
「実忠は、とくに学僧とまでは言いがたい(晩年に東大寺の学頭になったが)ひとであったかもしれない。ともかくも実務ができ、そのおもしろさに憑(つ)かれて身の衰えるのを忘れるという感じの人で、日本史上、そういう類いの最初の人物であったかとも思える。」
「実忠の子飼いの者たちは、奇妙なはなしをその師からきいていた。実忠は若いころ、奈良から遠からぬ笠置山(京都府相楽郡笠置町)にのぼって修行していたとき、竜穴をみつけ、そこに入った。その年月日まで伝えられている。天平勝宝3年辛卯(751)10月のことである。/その洞窟に入って北へ一里ばかりゆくうちに、にわかに光の世界に入った。実忠にはすでに知識があったために、そこが兜率天(とそつてん)の内院であることがわかった。」
「…常念観音院という処にゆくと、すでに聖衆(しょうしゅう)があつまっていて、しきりに悔過(けか)の行法を修していた。悔過とは、仏前に罪を懺悔する儀式である。行法がすすむうちに、中央に生身(しょうじん)の観世音菩薩があらわれ出たことに実忠はおどろき、聖衆のひとりに、ぜひこの行法を下界(げかい)にもちかえりたい、といった。/「それはむりだ」と、聖衆のひとりがいった。/しかし、実忠は才覚者だった。/「ここでは、行法の動作がゆるやかでございます。千べんの行法といえども、下界でそれをやるとき、走りさえすれば数を満たすことができます。人間は聖衆より劣るといえども、幸い、誠というなしがたいものが備わっております。誠をつくしてやれば、観音もまた現出してくださいましょう」/そういうやりとりがあって、実忠は、東大寺に帰ると、二月堂において修二の悔過を修しはじめたのである。」
『新 街道をゆく「奈良散歩」』に、源頼朝が出て来た。 修二会では、二月堂内陣で練行衆が「東大寺上院修中過去帳」を読み上げる。 奈良時代から現在まで、東大寺や二月堂に関係した人々、修二会に参籠した僧侶の名前が記されている。 源頼朝は平家の焼いた東大寺大仏殿を再建したので、ひときわ大きな声で「当寺造営大施主将軍頼朝右大将」と読み上げられる。 その17人後に「青衣の女人(しょうえのにょにん)」が読み上げられる。 鎌倉時代の承元年間(1207-1211)、集慶(じゅうけい)という僧侶が過去帳を読み上げていたところ、(女人禁制の)その前に青い衣の女性が現れ、「なぜ私を読み落としたのか」と、恨めしげに問うたという。 集慶がとっさに低い声で、「青衣の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていった。 以来、現在もなお、読み役の練行衆は「青衣の女人」と微音で読み上げることになっていて、心得た聴衆は聞き耳を立てている。
「二月堂界隈」と、東大寺境内 ― 2023/07/08 07:05
「私はこの境域のどの一角もすきである。」と、司馬遼太郎は「二月堂界隈」に書いている。 「とくに一ヵ所をあげよといわれれば、二月堂のあたりほどいい界隈はない。立ちどまってながめるというより、そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。東域の傾斜に建てられた二月堂は、懸崖造りの桁(けた)や柱にささえられつつ、西方の天にむかって大きく開口している。西風を啖(くら)い、日没の茜雲を見、夜は西天の星を見つめている。/二月堂へは、西のほうからやってきて、大湯屋や食堂(じきどう)のずっしりした建物のそばを通り、若狭井のそばを経、二月堂を左に見つつ、三月堂と四月堂のあいだをぬけて観音院の前につきあたり、やがて谷を降りてゆくという道がすばらしい。」
「東大寺の境内には、ゆたかな自然がある。/中央に、華厳思想の象徴である毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、大仏)がしずまっている。一辺約一キロのほぼ正方形の土地に、二月堂、開山堂、三月堂、三昧堂などの堂宇や多くの子院その他の諸施設が点在しており、地形は東方が丘陵になっている。ゆるやかに傾斜してゆき、大路や小径が通じるなかは、自然林、小川、池があり、ふとした芝生のなかに古い礎石ものこされている。日本でこれほど保存のいい境内もすくなく、それらを残しつづけたというところに、この寺の栄光があるといっていい。/東大寺境内は風景が多様で、どの一角も他に類がない。ふつうはその南の一辺からこの寺を見る。南大門は建材の縦横の力学的構造美を壮大に感じさせる。そのむこうに見る大仏殿は、重量を造形化した木造建造物として世界一であろう。」
「おもしろいのは、西の一辺である。ここは町方に融けている。西の一辺では西大門も中門も礎石しかのこっておらず、転害門(てがいもん)だけが結界の威を保っている。天平の創建以来の建物だが、佐保路(かつての平城京の一条大路)のざわめきに面しているところが、さりげなくていい。戦後のある日、この前を通ると、自転車置場になっていた。いまは。そうではないが。/天平のままといえば正倉院もそうである。建物もそこに収蔵されている宝物も、手つかずの天平以来のものなのだが、明治政府によって寺からひきはなされて皇室の所有になった。」
『新 街道をゆく「奈良散歩」』では、東大寺の「外護者」が出て来る。 写真家の入江泰吉は、修二会の「十二人目の練行衆」と呼ばれたという。 奈良出身の俳優、八嶋智人の『ファミリーヒストリー』で、東大寺の仕事の補助をする家系で、人のために尽くす、人を楽しませるのだ、とやっていた。
司馬遼太郎は書く。 「世界じゆうの国々で千年五百年単位の古さの木造建築物が奈良ほど密集して保存されているところはない。奇跡といえるのではないか。」 1300年間、メンテナンスを続けてきた奈良の人たちは、興福寺を大事な場所として有効利用したいと思っていた。 のちに奈良公園として使うのだ。 「たかが飲み屋にゆく途中が、これほど贅沢な景観であるというのは、何に感謝をしていいのだろう。やはり奈良にある多くのすぐれた建造物を、千数百年にわたって守りぬいてきてくれた、このまちの精神というものに敬意をささげるべきではないか。」
興福寺の歴史と藤原氏 ― 2023/07/09 06:51
興福寺。 「もともと、法相をインドから唐に持ちかえったのは、『大唐西域記』の玄奘三蔵(602~64)であった。かれは長安の慈恩寺(大雁塔のある寺)などでこれを翻訳し、その弟子窺基(きき・632~82)が承(う)け、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』という註釈書を書いた。/それが、興福教学の根本の典籍になっている。/法相・唯識の学問と思想は、日本人の思弁能力を高めたとはいえるが、しかしただ一冊の哲学書を、興福寺という巨大な大学が千数百年も研究しつづけるというのは、尋常とはいいにくい。」「人間の精神活動のなかでの袋小路のような一主題を千数百年もくりかえしたのは、世界にも類のない知的営為であったといえる。」
「そういう壮大な奇現象を可能にしつづけたのは、思想ではなく、経済であった。/ここで考えねばならないのは、興福寺の大檀那が藤原氏であることである。鎌倉期までの日本政治史は、藤原氏の家族史であり、権力と富はこの一門にあつまった。そういう家の氏寺である以上、平安期いっぱい、興福寺には荘園が寄進されつづけた。その荘園は、ほぼ大和地方に集中した。/その経済力は、僧兵を擁し、中央から地方長官として大和国の国司がきてもこれを相手とせず、ついには大和一国を私領化した。平安後期のことである。」
「源頼朝が鎌倉幕府を興したときも、大和における興福寺の勢力に手がつけられず、頼朝はむしろ妥協し、興福寺をもって、「大和守護職」とした。興福寺は鎌倉を怖れず、大和一国は「武家不入の地である」と豪語した。」
「織田・豊臣政権によって旧興福寺は大きく寺領を削られた。江戸期、それでも幕府は二万余石を与えた。万石以上というのは、石高からいえば大名である(塔頭のぬしの位階はなみの大名を超えている)。」
「旧興福寺の致命的欠陥(もしくは特徴)は、この巨刹を構成している塔頭子院のぬしが、ことごとく京の公家(藤原氏)の子だったことである。」
「公家にも、階級がある。最高位の摂関家の子弟は、興福寺筆頭の一乗院・大乗院に入り、門跡になる。この両院が交代して興福寺別当(長官)の地位につくのである。」
興福寺は、藤原氏の氏神である春日大社を支配下に置き、大きな権勢を振るっていた。
廃仏毀釈と興福寺の数奇な運命 ― 2023/07/10 07:04
司馬遼太郎さんは書く、明治元年の「神仏分離令」で、奈良においてその新政の嵐を正面から受けたのが興福寺だった。 ただ一片の命令で僧たちは春日大社の神職にさせられ、興福寺は廃寺同然になった。 この時期に五重塔はわずか二十五円で売りに出された。 広大な境内や領地は大きく姿を変える。 「僧がいっせいに還俗することによって寺を捨てた以上、寺も仏像も宝物も持主なしで路上にほうりだされたのと同然だつた。軽薄といえばこれほどすさまじいものもないが、一方、明治維新の革命性ということからみれば、興福寺におけるそのことほどはげしいものは他になかった。」
「その広大な境内も同様だった。/明治四年正月、大乗院とならんで最大の「邸宅」だった一乗院の敷地は、太政官が「官没」し、ここに奈良裁判所を置いた。いまは奈良地方裁判所になっている。/明治五年九月、一山の土塀・諸門などがことごとくこわされて、一空(いっくう)に帰した。もっともすこしは残った。五重塔、三重塔、北円堂、南円堂、大湯屋。/のちに成立する奈良公園のうつくしさは、興福寺を毀(こぼ)つことによって成立したのである。」
『新 街道をゆく「奈良散歩」』で、高島礼子は旧興福寺がどれだけ広大な面積だったかを、仏教史が専門の西山厚さん(奈良国立博物館名誉館員)に案内された。 奈良ホテルは、旧大乗院跡だが、上流貴族のようなお屋敷で、大乗院庭園が旧興福寺の南端になる。 藤原氏の、兄は都で摂政、関白となり、弟は仏教世界のトップとなった。 「神仏分離令」で、興福寺の公家出身の上層部の僧は、進んで寺を捨て、たやすく春日大社の神官となった。 公家の世の中になったのだから。 興福寺は、経済的基盤がなくなった、国の経営で檀家のない寺だったから、「神仏分離令」で一番強く影響が出た。 下級の僧侶は難しい選択を迫られた。 奈良文化財研究所歴史研究室の吉川聡さんによると、近年の研究で、承仕(事務方)の宗円の日記に、「神仏分離令」の明治元年三月十七日坊さんをやめる「一大事の評議」とあった。
旧興福寺の西端は、東向商店街。 西山厚さんお勧めの奈良県庁から旧興福寺域の全体を眺望する。 旧興福寺のかつての境内の中央を貫いて、登大路(のぼりおおじ)という大通りがつくられ、周囲が奈良公園となった。
興福寺は、明治十四年に再興が認可される。 300年ぶりの中金堂再建を2018年に30年に渡る念願で果たした多川俊映元貫主は、創建時と同じように建てて、コンセプトは「天平回帰」だと語っていた。 五重塔もそうで、剛直で、力強さがある、と。
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