マリー・ローランサンと堀口大學2024/01/20 06:59

我が家のテレビの上

 そこでアーティゾン美術館の「マリー・ローランサン―時代をうつす眼」展だが、これが素晴しかった。 我が家のテレビの上には、無論複製だがマリー・ローランサンが架かっている。 ずいぶん前に佐倉のDIC川村記念美術館へ行った時に、家内が好んで買ったものだ。 それで、この展覧会へ行ってみようと思ったのだが、石橋財団コレクション選と、野見山暁治の特集コーナーも併せて展示されていて、見ごたえのある充実した展覧会になっていた。

 マリー・ローランサン(1883~1956)は、パリ生まれ、アカデミー・アンベールで学び、ピカソやブラックと交流し、初期はキュビスムの影響を受けた。 自画像を並べた〈序章・出会う〉の次は、〈マリー・ローランサンとキュビスム〉のコーナー、ローランサンの描いた《パブロ・ピカソ》や《横たわる裸婦》には、思わず笑ってしまう。 石橋財団アーティゾン美術館蔵(以下、「館蔵」と略す)の、ブラックの《円卓》やピカソの《ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙》も比較展示されているのが、この展覧会のスタイルなのだ。

 次の〈マリーと文学〉のコーナー、マリー作も含む詩集、堀口大學譯『月下の一群』(1925年)や、マリイ・ロオランサン詩・絵、堀口大學譯編『Marie Laurencin詩画集』(1936年)という書籍が展示されている。 マリーは、1914年にドイツ人男爵と結婚、ドイツ国籍となったため、第一次世界大戦がはじまるとフランス国外への亡命を余儀なくされ、スペインに滞在していた。 堀口大學は、父親の九萬一が外交官でマドリードの日本公使館に勤務していたので、23歳で詩を書いたり、社交やスポーツを楽しんでいたが、習いごとには、よき師を選ぶことが第一という父親の主義で、油絵の手ほどきをマリー・ローランサンに頼んだ。

 関容子さんに『日本の鶯―堀口大學聞書き』(1980(昭和55)年・角川書店)という本がある。 マリー・ローランサンが、若き日の堀口大學を詠んだ「日本の鶯」と題する詩を、堀口自身が訳している。 初め「彼は御飯を食べる/彼は歌を歌ふ/彼は鳥です/彼は勝手な気まぐれから/わざとさびしい歌を歌ふ」と訳した。 それを半世紀以上経って、こう改訳している。 「この鶯 餌はお米です/歌好きは生れつきです/でもやはり小鳥です/わがままな気紛れから/わざとさびしく歌います」。 87歳の堀口大學は、「この頃になって、やっと日本語がわかったようですね」「それにしても、日本語とはいくら究めても究め切れないね奥行きの深い言葉ねえ」と、関さんに語っている。

 23歳の大學青年は、七つほど年上のマリー・ローランサンに、絵以外の手ほどきも受けたようである。 関容子さんの尋問に、ノラリクラリと、核心に触れる答弁を避けている。 しかし、関さんは、『全詩集』で割愛された詩の、こんな一節を見つけて小躍りするのだ。 「お前は思ひ出さぬか?/あの頃私たち二人の/心は心と溶け合ひ/唇は唇に溺れ/手は秒に千万の愛撫の花を咲かせたことを?//お前はまた思ひ出さぬか?/その頃私たち二人の云つた事を?/「神さまは二人の愛のために/戦争をお望みになつたのだ」と」