幕末の庄内藩、徳川のために最後まで戦う2024/01/10 07:19

 そこで幕末である。 嘉永6(1853)年のペリー来航から、幕藩体制そのものが危機に瀕した。 翌年、幕府は開国し、尊王攘夷運動が激しくなり、テロが起こった。 文久3(1863)年、幕府は庄内藩に江戸市中取締を命じた。 部隊長である番頭(ばんがしら)になったのが酒井玄蕃22歳、藩主一族である家老の息子で、文武両道に秀でていた。 藩士だけでなく、浪士で編成した新徴組を使って、盗賊や不正浪士を厳しく取り締まった。

 慶応3(1867)年10月、徳川慶喜は大政奉還をする。 西郷隆盛は、幕府方を挑発するため、江戸で浪人を使って強盗や放火を繰り返させる。 武力倒幕に持っていきたいので、戦争開戦の口実を得るためだ。 12月25日早朝、庄内藩が中心になり、江戸の薩摩藩邸が焼き討ちされる。 薩摩64名、幕府方11名死亡。 これをきっかけに、慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いとなり、戊辰戦争が始まる。

戦争は、東北地方へ。 庄内藩は、朝敵とされ、討伐対象となる。 新政府軍の圧倒的兵力に対して、連戦連勝したのが、「鬼玄蕃」酒井玄蕃の二番隊だった。

 山村竜也さん(歴史作家)…酒井忠次以来の誇り、徳川のために最後まで戦う、清々しい思い、会津と似ている。

 森田健司さん(大阪学院大学教授)…外様を抑えるため、常に戦さを意識していた藩。「磯釣り」は、武士道を高めるもの、太平の中で武士道をどう維持、発展させるかが、庄内藩の課題で、特徴だった。

 磯田道史さん…質朴な風、昔の士風が残っている。

 佐藤賢一さん(作家、鶴岡出身、庄内を題材にした『新徴組』『遺訓』)…地元では「殿」と言い、大河ドラマで武勲・四天王筆頭を見て「これ、うちの殿の先祖なの?」という感じ。こんなに活躍した殿とは思っていない。自学自習は卒業した鶴岡南高にも残っていて、とにかくいわゆる放任主義、好きなだけやりなさい、と。

 磯田道史さん…徂徠学は、3)問題解決できるソリューションの学問。儒学という学問は、1)難しい漢文が読める、2)道徳が身に着く、3)のこれがあった。経済とか軍事とか、目的があるものは、徂徠学で育てると有利になる。

森田健司さん…実は、庄内藩、鳥羽伏見の戦いには参戦していない。1月10日に朝敵を設定したのには入っていない。2月17日の二度目まで、時間がかかっている。