その時、彼女は泣き叫んだ ― 2024/01/06 07:21
松本午後二時三十分発の名古屋行の列車で、五分遅れの九時十分に名古屋に着いた。 塩尻から南木曽まで乗った五十四歳の商家の主婦が、二人と同じ車輛に乗り込むなり、新聞で読んで強い関心を寄せていた犯人と少女だと気づく。 主婦は帰宅して新聞を確認、娘婿に話したので、その婿が駐在所へ知らせ、手配されることになった。
名古屋で一泊、恭介は次の目的地を木曾山中とさだめ、名古屋市内のあちこちの店で登山用の作業服や鉈などを買った。 財閥の杉富家から多額の身代金をせしめようという魂胆はあったが、いたずらをしようという気持はかけらもなかった。 いや、それ以上に、なんとしても警察の手からのがれたいという恭介のねがいは、たとえ一日でも、せめて一時間でも長くゆたかといっしょにいたい、ゆたかを自分の手許からはなしたくないという一筋につながっていて、やや過言ではあるものの、身代金などはもうどうでもいい、そんなものは要らないという気持にすらなっていた。
名古屋駅で捜査陣は、作業服を着て登山帽の恭介と、登山帽に紺のスエーターとズボンに運動靴のいっけん少年のように見えるゆたかを、見のがしてしまった。 二人は、午後六時九分名古屋発の普通列車に乗り込んで、七時四十分に中津川で下車。 同駅前から私鉄、北恵那鉄道に乗り換えて、七時五十分発、八時三十五分に終着駅の付知(つけち)へ着いている。 電車に乗り合わせた五十歳がらみの男に問われて、付知から下呂へ行くバスに乗るつもりだと答えると、もうバスはない、付知に一軒ある旅館が自分の家のすぐ近くだからと案内してくれた。 だが旅館は大阪方面から木材の買い付けに来た業者で満室で、すすめられて、その通りで雑貨屋を営むその男の家の二階で一夜をすごさせてもらうことになった。
しかし、寒村と言ってもいい小さな集落では、どんな小さな出来事もたちまち住民のあいだに伝わってしまう。 前日から長野県と岐阜県、ならびに愛知県の広域にわたって手配がゆきわたっていた。 雑貨屋に中津署員が踏み込んだのは、翌朝の午前六時十分である。 「小倉恭介だな」 ゆたかとむかい合って朝飯をふるまわれていた恭介は、無言のままゆっくりうなずいた。 そして、捕縄をかけられるときにもまったく抵抗しなかった。
ゆたかはひきつったような表情で立ちつくして、一と言も喋らなかったが、前夜店の土間で脱いだ靴を履き終わった恭介が刑事に背を突かれて道路のほうへ一歩踏みだすと、突然狂ったように叫んだ。 もう一人の刑事が背後から抱きかかえているのを振り切ろうとしながら、彼女は泣き叫んだ。
「いや、お兄ちゃんを連れて行っちゃ、いや、あたしは、お兄ちゃんといつまでもいっしょにいたいの。お兄ちゃんは、あたしになにもしませんでした。映画も観せてくれたんです。化粧袋を買ってくれたんです。スエーターも、帽子も、ズボンも、運動靴も買ってくれたんです。あたし、お兄ちゃんが、大好きなんです」
お節料理の「田作り」「ごまめ」考 ― 2024/01/07 07:26
なぜ、「田作り」というのか、という「チコちゃん」のような疑問が頭をかすめた。 江戸時代、イワシを干したのを「干鰯(ほしか)」と呼んで肥料にしていたのは聞いたことがあったから、それで「田作り」というのではないかと、連想した。
辞書で「田作り」を見ると、「ごまめ。昔、田の肥料にしたことからの名という。正月の祝い肴(さかな)にする。」とあって、予想が当たってニヤッとする。 その辞書はさらに、[季 新年]として正岡子規の<田作りや庵の肴も海のもの>が引いてあった。 季題だったのだ。 「ごまめ」も見る。 鱓という字を書く。 「ことのばら」ともいうようだ。 こちらには、松根東洋城の[季 新年]<噛み噛むや歯切れこまかに鱓の香>が引いてある。
そこで『角川俳句大歳時記』にあたる。 [新年]田作【たづくり】の立項で、傍題に「五万米(ごまめ)」「小殿原(ことのばら)」。 解説「鯷(ひしこ)(カタクチイワシの幼魚)の乾燥したものを炒って飴煮にしたもの。田作りという語源は田の肥料にしたことから、豊作を祈念して五万米といい、武家では、小さいながらもお頭がついていることから小殿原とよんだ。正月に欠かせないお節料理の一つである。(岩淵喜代子)」
「考証」には、「鱓(ことのばら)」「韶陽魚(ごまめ)」「伍真米(ごまめ)」「小殿腹と称して、子孫繁栄の義を祝するなり」「鮎の至つて小さきものを韶陽魚と称して、俗に〈ごまめ〉といふものなり。その源、押鮎より起れるならし」などの表記や記述がある。
以下のような例句があった。
臆せずも海老に並ぶや小殿原 一箕
田づくりや鯷の秋をむかし顔 士巧
自嘲して五万米の歯ぎしりといふ言葉 富安風生
田作りや碌々として弟子一人 安住 敦
ごまめ噛む歯のみ健やか幸とせむ 細川加賀
田作りやむかし九人の子沢山 岬 雪夫
田作を噛みて名前の忘れ初め 榎本好宏
百歳まで生くるてふ夫ごまめ噛む 村山たかゑ
片隅にごまめの目玉ひしめきて 塩野典子
田作や昭和と同じ齢重ね 宮武章之
姉が来てごまめ作りをはじめけり 小圷健水
「群星訃2023」「惜別」の加藤秀俊さん ― 2024/01/08 07:15
訃報も見逃していたので、確かなことは言えないが、加藤秀俊さんの追悼記事や評伝が朝日新聞に出ないのを残念に思っていた。 それが12月27日になって朝刊文化面の「群星訃2023」という追悼をまとめた記事で、ようやく取り上げられたのを読んだ(藤生京子記者)。 見出しは「「大衆」を見つめて 社会をあぶり出す」「アカデミズムのよろい脱いで」。 加藤秀俊さんのほか、米文学・比較文学者の亀井俊介さん(8月18日死去・91歳)と、私はお名前を知らなかった社会学者の立岩真也さん(7月31日死去・62歳)。
「社会学者の加藤秀俊(9月20日死去・93歳)が大学のゼミで流行歌の分析を始めた戦後まもない頃、大衆文化研究は「まとも」とはみられていなかったという。それが1954年に留学した米国は一転、自由闊達な議論であふれていた。迷わず進路を決めた。
帰国後の57年、「中間文化論」を発表し、高級文化と大衆文化のあいだの新しい動きをとらえて注目された。メディア、人間関係、教育に未来学まで関心は幅広かったが、80歳を過ぎて恩師D・リースマンの「孤独な群衆」を改訳するなど大衆文化論はライフワークだったのだろう。それだけに、手厳しくもあった。「社会は誰が動かせるわけでもないよ」と、諦念めいた発言が耳に残っている。」
亀井俊介さんの鶴見俊輔さんとの共著『アメリカ』(文藝春秋・1980年)は、書棚のどこかにあるはずだ。 「亀井俊介も大衆文化研究への接近は米国体験だ。ホイットマンを研究した59年の留学の10年後。ベトナム反戦や公民権運動を機にした「文化革命」に刺激を受けた。/73年に再び渡米、各地を旅しながらサーカス、西部劇、ターザンなどの資料を集め、調べた成果が「サーカスが来た! アメリカ大衆文化覚書」である。アカデミズムのよろいを脱いだ自由な筆致は、エッセーとしても高く評価された。」
6日に、ここまで書いたら、朝日新聞夕刊「惜別」に「名文家で知られた社会学者 加藤秀俊さん」「妻へのみやげは『ラブレター』」が出た。(桜井泉記者) 「まがうことなき知の巨人」、「無境界主義の教養人」。近しかった人たちは、そんな言葉で見送った。戦後日本の大衆社会を分析し、メディア研究者としても活躍。教養書では芸能や人生論を平易な文章で論じ、テレビや講演で好評を博した。」
酒井家と庄内藩、領民を思いやる政治 ― 2024/01/09 07:10
12月17日の<小人閑居日記>に「海老すくい」酒井忠次と庄内藩酒井家を書いたのは、『英雄たちの選択』で放送された「幕末最強! 庄内藩の戊辰戦争~徳川四天王・酒井忠次の遺伝子~」(BS1、12月13日)のマクラのつもりであった。 戊辰戦争で連戦連勝し、最後まで抵抗したのは庄内藩で、それを率いたのが酒井玄蕃(げんば)、酒井家分家の出で27歳、二番隊大隊長を務め「鬼玄蕃」と恐れられた。
「荘内大祭」は明治10年から140年余も続き、人々が酒井家を殿様として慕いつづけていることがわかる祭だ。 酒井家は、忠次の孫の忠勝が元和8(1622)年に出羽庄内の鶴ヶ城13万8千石に入部、東北に放り込まれたのは、徳川家の偵察衛星だと磯田道史さんは言う。 忠勝は「庄内は天恵の沃野、国を立つべき楽土なり」といった、日本有数のコメどころだ。 ユニークなのは教育で、文化2(1805)年藩校致道館を創設、幕府の朱子学(上下関係を重んじる)に対し、致道館は徂徠学(中国の古典から直に学ぶ)で、自学自習をすすめ、成果を発表するゼミ形式の授業を行なった。 また、藩士に奨励されたのが「磯釣り」、海までの山道を往復する心身の鍛錬だった。 現在の殿様、19代世嗣の酒井忠順さんは、藩や幕府を背負って立つ、世の中に役立つ人を育てる藩校だった、庄内人の気質「沈潜の風」、いざという時のために力を蓄える、養っていくという精神の礎を築いた、と。
領民を思いやる政治、天保4(1833)年の大飢饉には、藩の蔵を解放して領民に米を配給、一人の餓死者も出さなかった。 天保11(1840)年の危機、幕府が財政破綻の川越藩松平氏救済のために、川越藩を庄内藩に、庄内藩を長岡藩牧野氏へ、長岡藩を川越藩へ移封する三方領知替えを命じた。 これに納得しなかったのが領民で、反対運動を起こし三万人を動員、江戸では直訴状を老中に届け、酒井家が今まで自分たちのために善政を敷いたこと、生活ができなくなると訴えた。 天保12(1841)年、幕府は三方領知替えを中止した。
幕末の庄内藩、徳川のために最後まで戦う ― 2024/01/10 07:19
そこで幕末である。 嘉永6(1853)年のペリー来航から、幕藩体制そのものが危機に瀕した。 翌年、幕府は開国し、尊王攘夷運動が激しくなり、テロが起こった。 文久3(1863)年、幕府は庄内藩に江戸市中取締を命じた。 部隊長である番頭(ばんがしら)になったのが酒井玄蕃22歳、藩主一族である家老の息子で、文武両道に秀でていた。 藩士だけでなく、浪士で編成した新徴組を使って、盗賊や不正浪士を厳しく取り締まった。
慶応3(1867)年10月、徳川慶喜は大政奉還をする。 西郷隆盛は、幕府方を挑発するため、江戸で浪人を使って強盗や放火を繰り返させる。 武力倒幕に持っていきたいので、戦争開戦の口実を得るためだ。 12月25日早朝、庄内藩が中心になり、江戸の薩摩藩邸が焼き討ちされる。 薩摩64名、幕府方11名死亡。 これをきっかけに、慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いとなり、戊辰戦争が始まる。
戦争は、東北地方へ。 庄内藩は、朝敵とされ、討伐対象となる。 新政府軍の圧倒的兵力に対して、連戦連勝したのが、「鬼玄蕃」酒井玄蕃の二番隊だった。
山村竜也さん(歴史作家)…酒井忠次以来の誇り、徳川のために最後まで戦う、清々しい思い、会津と似ている。
森田健司さん(大阪学院大学教授)…外様を抑えるため、常に戦さを意識していた藩。「磯釣り」は、武士道を高めるもの、太平の中で武士道をどう維持、発展させるかが、庄内藩の課題で、特徴だった。
磯田道史さん…質朴な風、昔の士風が残っている。
佐藤賢一さん(作家、鶴岡出身、庄内を題材にした『新徴組』『遺訓』)…地元では「殿」と言い、大河ドラマで武勲・四天王筆頭を見て「これ、うちの殿の先祖なの?」という感じ。こんなに活躍した殿とは思っていない。自学自習は卒業した鶴岡南高にも残っていて、とにかくいわゆる放任主義、好きなだけやりなさい、と。
磯田道史さん…徂徠学は、3)問題解決できるソリューションの学問。儒学という学問は、1)難しい漢文が読める、2)道徳が身に着く、3)のこれがあった。経済とか軍事とか、目的があるものは、徂徠学で育てると有利になる。
森田健司さん…実は、庄内藩、鳥羽伏見の戦いには参戦していない。1月10日に朝敵を設定したのには入っていない。2月17日の二度目まで、時間がかかっている。
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