酒井家と庄内藩、領民を思いやる政治 ― 2024/01/09 07:10
12月17日の<小人閑居日記>に「海老すくい」酒井忠次と庄内藩酒井家を書いたのは、『英雄たちの選択』で放送された「幕末最強! 庄内藩の戊辰戦争~徳川四天王・酒井忠次の遺伝子~」(BS1、12月13日)のマクラのつもりであった。 戊辰戦争で連戦連勝し、最後まで抵抗したのは庄内藩で、それを率いたのが酒井玄蕃(げんば)、酒井家分家の出で27歳、二番隊大隊長を務め「鬼玄蕃」と恐れられた。
「荘内大祭」は明治10年から140年余も続き、人々が酒井家を殿様として慕いつづけていることがわかる祭だ。 酒井家は、忠次の孫の忠勝が元和8(1622)年に出羽庄内の鶴ヶ城13万8千石に入部、東北に放り込まれたのは、徳川家の偵察衛星だと磯田道史さんは言う。 忠勝は「庄内は天恵の沃野、国を立つべき楽土なり」といった、日本有数のコメどころだ。 ユニークなのは教育で、文化2(1805)年藩校致道館を創設、幕府の朱子学(上下関係を重んじる)に対し、致道館は徂徠学(中国の古典から直に学ぶ)で、自学自習をすすめ、成果を発表するゼミ形式の授業を行なった。 また、藩士に奨励されたのが「磯釣り」、海までの山道を往復する心身の鍛錬だった。 現在の殿様、19代世嗣の酒井忠順さんは、藩や幕府を背負って立つ、世の中に役立つ人を育てる藩校だった、庄内人の気質「沈潜の風」、いざという時のために力を蓄える、養っていくという精神の礎を築いた、と。
領民を思いやる政治、天保4(1833)年の大飢饉には、藩の蔵を解放して領民に米を配給、一人の餓死者も出さなかった。 天保11(1840)年の危機、幕府が財政破綻の川越藩松平氏救済のために、川越藩を庄内藩に、庄内藩を長岡藩牧野氏へ、長岡藩を川越藩へ移封する三方領知替えを命じた。 これに納得しなかったのが領民で、反対運動を起こし三万人を動員、江戸では直訴状を老中に届け、酒井家が今まで自分たちのために善政を敷いたこと、生活ができなくなると訴えた。 天保12(1841)年、幕府は三方領知替えを中止した。
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