南北対立、フィルモアの「1850年の妥協」で安定、日本開国を追及へ2021/12/11 07:24

 大島正太郎さんの「日米関係事始め~1850年代、60年代の両国関係~」で、1850年代のアメリカの事情に戻りたい。 大島さんには、『日本開国の原点 : ペリーを派遣したフィルモア大統領の外交と政治』(2020年5月・日本経済評論社)という著書があるそうだ。

 南北対立の遠因は、アメリカ建国当時の内部矛盾にあった。 1776年の独立宣言が「すべての人間」は「平等」としていたのに対し、1787年の連邦憲法には「自由人」と「自由人以外」があった(第一章第2条「各州の人口は、年期を定めて労務に服する者を含み、かつ、納税義務のないインディアンの総数に、自由人以外のすべての者の数の5分の3を加えたものとする。」)。 連邦憲法制定時に南北諸州間の妥協として、南部諸州の奴隷制度が容認された。 連邦国家建国当初は、しばらく妥協のまま安定。 その後、州になっていない「属領」地方の発展で、新たな州の連邦参加が問題になるにつれ、連邦上院での南北間の数の均衡が崩れる可能性が出て、南部諸州にとってバランス維持が枢要となった。 奴隷制容認州の拡大の是非をめぐる南北対立が深刻化した。 最初の危機は、ミズーリ州昇格問題だったが、1820年の「ミズーリの妥協」で一応時間を稼いだ。

 ポーク大統領(民主党)(1845~49年)は、南西部地帯(綿花栽培に適した土地)に新たな州を作るため、領土拡張を追及。 1846~48年のメキシコ戦争の結果、メキシコから今日のカリフォルニア等広大な南西部を獲得。 1848年11月の選挙で、ホイッグ党が勝利し民主党から政権を奪取、1849年3月ザカリー・テーラー大統領、ミラード・フィルモア副大統領就任。 新大統領は奴隷制拡張問題について、より急進的、中道派のフィルモアを冷遇。 新大統領は、カリフォルニアからの「自由州」としての連邦加入要請の受け入れ是非をめぐり南部諸州と対立。 1849年12月、連邦議会開会、カリフォルニア問題で南北衝突、1850年に入り南北諸州間の分断深刻化、内戦勃発も危惧された。 その時、7月、テーラー大統領急死、フィルモア昇格、南北妥協に向け舵を切った。 閣僚全員すげ替え、一種の「政変」。

 フィルモア大統領のまとめた「1850年の妥協」。 8本の関連法のパッケージで、カリフォルニアを自由州として受け入れる(5月実現)、南西部属領は「住民主権原則」により、奴隷制を容認するか否かは、住民の自由意思で決める(連邦議会が立法で制限できない)、「1850年逃亡奴隷法」で対処ぶり強化、など。

 「1850年の妥協」によって南北の対立は沈静化して内政が安定し、対外政策推進の余裕が出た。 カリフォルニア州の発展とロッキー山脈以東の諸州との統合に尽力、大陸横断鉄道構想、中米地峡に運河、少なくとも鉄道で太平洋・メキシコ湾を結ぶ構想、そしてカリフォルニア発展のため、太平洋の対岸の日本開国を追及、遠征隊を派遣することにした(1850年末から動きがあり、1851年5月政策決定)。 「1850年の妥協」によって、日本開国外交イニシャチブが政治的に可能になったのだった。

日本開国、フィルモア大統領とペリー2021/12/12 07:13

 フィルモア大統領と日本開国について、少し詳しくみてみる。 1850年のカリフォルニア州の加入(政治的確定)までは、日本は〝中国のその先〟、まさに「極東 Far East」だったが、カリフォルニア州からは、西回り「Far(Near?) West」となり、アメリカは英国に対して有利な地位に立った。

 1851年5月に日本遠征隊派遣が決定されたが、ペリーの主張と実態は違う。ペリーは1856年に出版された『日本遠征報告書』で、自分の提案を政府が受け入れ、自分に託したと主張。 ペリーが1851年1月に海軍長官に提案したのは事実だが、政策決定に重要な提案はグリン艦長(長崎でラゴダ号遭難船員救出の功績あり)とオーリック提督(東インド艦隊司令官)のもの。(フィルモア、グリンと面談の事実) オーリックの提案を採用し、遠征隊派遣決定、フィルモアから将軍(「日本皇帝」)あて国書をオーリックに託し、派遣した。 国書の日付は1851年5月だったが、オーリックは途中で解任され、「幻の国書」。 ペリーはオーリック解任後、その後任司令官になることを躊躇したが、結局、指名を受け入れ、1852年春に正式に任命。 一年弱、周到な準備に当て、特に戦艦の数を増やした。 1852年11月初め、新たな「国書」を携行、ペリー日本遠征隊11月24日出航。

 フィルモア大統領の1852年「年次教書」(12月6日付)は、日本が外交課題として言及された最初の大統領教書。 ペリーの出航から二週間足らず、まだ遠征隊の成果はまったく不明の段階だった。 米太平洋岸の州の繁栄のためにという日本開国政策の目的を含め説明し、太平洋の対岸にあるアジア諸地域が相互に有益な交流のために開放される試みが行われるべきである、とする。 この試みを行うに当たり、遠方の地を植民地として従属させることを容認していない憲法体制を持つ米国は、他のいかなる国より大いに有利な立場にある、とし「海軍において最も高位である将官に、日本に向かうように命令した」と、ペリーの名が出ていない。 また、外交的に重要なことは、オランダに日本現地での協力を要請したことも明らかにしていることだ。(ペリーは、オランダには不信感)。 フィルモアと在オランダ・フォルサム公使は親しく、フォルサムがオランダ外務省に要請し、オランダは好意的に対応してくれた。

 フィルモア大統領は「1850年の妥協」の後、その重要な要素だった「1850年逃亡奴隷法」を強硬に履行したことで、北部諸州の反奴隷制勢力から激しく非難され、その評判は最悪となり、米国史から消えた。 その結果、日本開国について、外交イニシャチブをとった業績も無視された。

日米ともに、近代化の「生みの苦しみ」2021/12/13 07:02

 大島正太郎さんの土曜セミナー、小野友五郎使節団についてだけは10日に書いたが、後半は1860年代の日米外交関係の動揺、南北戦争と戊辰戦争の話だった。 南北戦争(1861~65)はthe Civil War内戦、南部からは独立戦争、北部から見て南部諸州の反乱だった。 当初の戦争目的は、連邦統一維持のための反乱鎮圧。 米国の外交上、当時の超大国「大英帝国」による南部独立承認の阻止が最優先。 海外展開中だった複数の艦隊の本国帰還(南部諸州海上封鎖のため)。 日本を含むインド以東の東アジアの米国利益を守る艦隊(東インド艦隊)も管轄海域から撤収。

 英国への配慮と艦隊の撤収により、対日外交の優先順位は大幅に低下、英国に主導権を譲った。 これが、安政五条約での開国以降、国内動乱対策をめぐり幕府等への対応で、列強の行動を主導したのが英国だった背景。

 リンカーン大統領は1863年11月19日の「ゲティスバーグ演説」直後の12月8日の「年次教書」で日本に言及した。 幕府を開国を進める開明派、尊王攘夷派を守旧派と非難し、困難な情勢が平和的に克復されることを期待している。

 福沢諭吉は、慶応3(1867)年に幕府の軍艦受取委員長小野友五郎の一行に加わり二度目の渡米をした。 11日に書いた南北対立の遠因、独立宣言と連邦憲法の問題は、南北戦争による南部諸州の敗北により、独立宣言の精神が連邦憲法に反映修正され、奴隷制廃止、法の下の平等が確立した。 福沢がワシントンを訪問したのはちょうど、独立宣言が再び謳歌されたその時だった。 「すべての人間は生まれながらにして平等」(米国独立宣言) 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず。」 一行を歓待したスワード国務長官は、リンカーンが南北戦争での勝利、奴隷制廃止を実現させる過程での「右腕」だった。

 福沢は『自伝』「王政維新」の中で、スワード(「シーワルト」)が退官後、1870年に訪日した際の日本評価に言及し、「元来英国と反りが合わずに、いわば日本贔屓の人でありながら、今度来遊、その日本の実際をみて何分にも贔屓ができぬ。こんな根性の人民では気の毒ながら自立は六かしいと断言したこともある。」としているが、ただし真偽不明。

 南北戦争を経て、米国は奴隷制を廃止、自由平等に基づく「近代」国家に変身。 開国後日本では尊王攘夷運動の激化による幕藩体制の動揺、朝廷と組んだ雄藩による倒幕、戊辰戦争、維新政府の確立があり、近代化の体制的基盤ができた。 1850年代、60年代の日米関係は、双方が、近代化の「生みの苦しみ」を経験し、次の世代に引き継いだ創成期だった。

コロナすき間日誌<等々力短信 第1150号 2021(令和3).12.25.>2021/12/13 07:03

 なぜかわからないらしいが、新型コロナウイルスの感染者数が、日本だけ少なくなっている。 第六波が来ない内にということもあってか、11月末から12月初旬にかけて、久しぶりに出かける機会が続いた。 11月28日は、慶應志木会・枇杷の会の大磯吟行、鴫立庵二十三代庵主本井英先生の本拠地で句会をした。 快晴で暖かい大磯の、島崎藤村旧居、白雪の大きな富士がかぶさる東海道の松並木、明治記念大磯邸園を本井先生のご案内で巡る。 俳諧道場、鴫立庵室での句会は、当然畳敷き、胡坐をかけないので閉口した。 拙句<オミクロン来ぬ間の吟行冬の凪>、誰も採ってくれなかった。

 30日は、二年ぶりの慶應志木高新聞OB会が、日本橋ゆかりという料理屋であった。 一年上との創刊メンバーを中心に8人が集まる。 話せば60年以上前の青春が、昨日のことのようによみがえって、すこぶる楽しい。 おばさん連(失礼)のような世間話、なぜ宮内庁は初めにもっとよく調べなかったのだろうという意見で一致する。

 30代から長年保持していた背中の粉瘤(腫瘍)を、ご近所に最近出来た女医さん達の皮膚科、Mスキンケアクリニックで、先月17日に摘出手術してもらった。 12月1日、病理検査の結果を聞きに行く。 表皮の嚢胞、悪性像はない由。 カーディガンを着ていると、女医さんがボタンを留めてくれる、そんなことはしてもらったことはないと笑う。 でも、背中の傷や湿疹に薬を塗るのは、自分ではできず、家内頼りだ。

 3日は、長く月一で体を整えてもらっている大田区萩中の「学べる治療院 身体のこたえ」・広島先生の予約日、鴫立庵句会で応えた腰を中心に鍼や電気の治療も受ける。

 4日、家内と銀座よしたけで天ぷらのランチ。 ギャラリーせいほうで舟越保武「女の顔」特別展。 盛岡疎開中制作され、1947年新制作派協会展に出品、フランス大使館買上げになったが、その後所在不明だった作品で、今年フランスのオークションに出品され、里帰りした。 白大理石の美しい「女の顔」に吸い込まれ、心が静まる。

 その後、交詢社に回り、二年ぶりにリアル開催された福澤諭吉協会の土曜セミナー。 元外交官、大島正太郎さんの「日米関係事始め~1850年代、60年代の両国関係~」を聴く。 日本を開国したのは、ペリーではなく、1851年に徳川将軍に国書を渡すため遠征隊派遣を決定したフィルモア大統領だと言う。 ガツンと一撃、蒙を啓かれた。

 5日は、三田あるこう会(昭和47年創始)第539回例会「大宮盆栽村散策」、東武野田線大宮公園駅集合、『時事新報』に漫画を描いた北沢楽天のさいたま市立漫画会館、嘉永創業の「清香園」、盆栽美術館を見る。 一度行ってみたい所だった。 父親が盆栽趣味だったが、その行方は不明という事で、宮川幸雄会長と一致した。

(自祝・自信・自笑!「煤掃」の本日、お蔭様で「等々力短信」1150号を発信することができました。長く読んで下さっている皆様に感謝です。)

JR湘南新宿ライン宇都宮線で大宮へ2021/12/14 07:01

 5日は、三田あるこう会の第539回例会で「大宮盆栽村散策」があった。 東武アーバンパークライン大宮公園駅集合。 東武野田線は、近年こういう洒落た名前になっているが、かつて「買い出し電車」だったことは、今年2月13日の当日記「買い出し電車の地獄、〈手入れ〉〈検問〉」に書いた。 永井荷風の『問はずがたり・吾妻橋 他十八編』(岩波文庫)収録の短編「買出し」(昭和23(1948)年1月)に、「船橋と野田との間を往復している総武鉄道の支線電車」として登場している。

 大宮までは渋谷駅から、当番の片山さん、松岡さんの周到な案内にあったJR湘南新宿ライン宇都宮線に、初めて乗って行ったが、赤羽までは途中新宿、池袋しか停まらず、早いのに驚く。 大森から京浜東北線で来て、品川駅でJR上野東京ライン宇都宮線に乗り換えなかった人が、集合時間に遅れたのも、なるほどと思った。

 赤羽から大宮までは、高架線の各駅停車、新幹線に並んで走るのだが、赤羽、川口、戸田、浦和、与野とマンションだらけ、遠く山並みが見えて、与野あたりから真っすぐの所に三角のとんがりが見えるのは、秩父の武甲山だろうか。 与野から志木の高校に通っていた同級生で、エヴェレストで死んだ成田潔思君のことを思い出す。 三田あるこう会で川越に行った時、初めて知り合った沼田さんが山岳部の成田君の後輩で、志木高で成田君と同じクラスだったと話すと、それだけで感じ入って、寡黙だったけれど腕力が強かったという、山でのエピソードを話してくれたのだった。