虚子、漱石の『道草』を於糸サンに残す2022/08/10 07:08

 俳誌『夏潮』8月号は第16巻第1号、つまり16年目に入り、清水操画伯の表紙絵も沖縄の建物をバックにしたパパイヤの花(?)に変わった。 本井英主宰は、通巻181号は「通巻200号」も決して遠くないことを痛感、ある感慨に満たされて、200号への夢を育みつつ、「オール夏潮」で企画を考えていきたいと述べておられる。

 8月号とともに送られてきた『「夏潮」別冊 虚子研究号 2022』も、Vol.XIIを数える。 高浜虚子の文学を敬し慕う俳誌『夏潮』の、創刊5年目の2011年から年刊で、きちんと12冊目、虚子の求めた境地を求める虚子研究の、執筆者は誌友に限定されない、たいへんな積み重ねである。 しかも「非売品」として、多くの方に配られている。

 Vol.XIIに、本井英主宰の「大正四年冬の虚子」があって、興味深く読んだ。 昨年、突然S氏から連絡を頂いて、大正4年10月に岩波書店から刊行された夏目漱石の『道草』の最終ページから奥付にかけての余白に、高浜虚子が長文を書きつけているのに接する機会を得たというのだ。 その「かきつけ」の写真も、論文に掲載されている。

 大正4年12月12日読了と記した虚子は、漱石に寄贈された『道草』を鞄に入れて、修善寺の新井屋旅館に仕事に来て、それを読んだ。 そして、この「かきつけ」を書いて、新井屋旅館の女中のひとり「於糸サン」に与えたのである。 折角、寄贈されたものを、軽蔑するように取れるかもしれないが、そうではない、と虚子は書く。

 「其未来を凡てXの中に置いてをる於糸サンの手に残して置いて、同時に此冊子の未来をどうなるかを見る方が遥にこの冊子を有意味に所置するすることのやうに私には思へるのである。」 「今此書を於糸サンに残すに当りて、於糸サンの運命と此書の運命が一緒に私の前に掛になつたやうな心持がするのである。」 「多くの女中の中で特に於糸サンを選んだのは彼女の性向にどこか超然としたところがあつて、他に煩はされず独り比較的高い地歩を占めて行くやうな人のやうに見えたからである。」

 最後に「繰り返していふと」として、虚子は「船中から酒の空瓶を海中に投じて其の漂着する先を見たいと思ふやうな興味が於糸サンの未来と共に此冊子の未来にもあるのである。」と書いている。 本井英さんは、この章を「ボトル・レター」と題した。

虚子と修善寺新井屋を結びつけたもの2022/08/11 06:50

 本井英主宰の「大正四年冬の虚子」のつづき。 「於糸サン」というのは、この『道草』の存在を本井英さんに通知してくれたS氏の祖母に当たる、高田きぬ(旧姓飯山)さん、明治31年2月生まれの、当年、数え年18歳、同じ修善寺の老舗店の娘さんだった。 別に彼女が虚子から贈られた短冊(写真も掲載)があり、「我を恋ふる少女あはれや黄鶺鴒(せきれい)」という虚子作と思われる一句が書きつけられている(虚子の『年代順虚子俳句全集』等には見当たらないそうだ)。 本井さんは、「仮にその句中の「少女」が「於糸サン」であったとしたら、その娘はあたかも渓流の「黄鶺鴒」のように、事に応じてシャキッと振舞う、気っ風の良い爽快な娘であったに相違ない。」とする。

 本井さんはまた、「新井」の中で、「於糸」の名で呼ばれていたことは、ことに虚子に気に入られていた女中であった可能性も高い、と言う。 なぜなら、「糸」は虚子夫人の名前であり、その「糸」の親友であった新井の女将相川つるは、そのことを熟知していたに違いないからである。

 虚子と修善寺新井屋との、そもそもの関係については、『虚子自伝』(昭和30年・朝日新聞社刊)中の「新井屋」が簡潔で分かりやすい、という。 駿河台にあるニコライ堂、ハリストス正教会に附属している神学校(ニコライ女学校)で、その6回目の生徒の中に、伊豆の修善寺から来た相川つると、上州の前橋から来た大畠いとがいた。 二人は同じクラスの中でも気の合う仲間だった。 この二人は76歳の今日まで、不思議に親しい交流をつづけている。 相川つるは新井屋の女将であり、大畠いとは虚子夫人という訳だ。

 明治32年、虚子は劇しい大腸カタルをやり、あるいはコレラではないかという疑いも受け、当時駿河台にあった山龍堂という病院に一と月入院、強心薬を飲みつづけてようやく一命を取り止めた。 退院してからも暫く静養する必要があるというので、夫人の繫がりのあった、この修善寺の新井屋に一か月ばかり逗留した。

 虚子は修善寺で大いに骨を休め、「ホトトギス」明治32年7月号には「浴泉雑記」なる写生文を執筆している。 この作品で虚子が文章表現の新機軸を手に入れたことは、既に本井さんの『虚子散文の世界へ』(ウェップ)で触れられていた。 この「浴泉雑記」は、修善寺温泉を「エデンの園」に擬えた夢のような文章だったが、さらに明治32年11月号の「霊泉余滴」では当時の虚子の宗教観を大いに語った。 こうして、修善寺滞在中の虚子の心が「宗教」に傾くのは、宿の女将である相川つると虚子の妻糸を繋ぐ大きな絆に「ハリストス教会」のあったことを忘れてはなるまい、と本井さんは指摘している。 糸の父、元前橋藩士大畠豊水一家は熱心なハリストス正教会の信徒で、糸の姉「たま」の婿養子斎藤久吉はハリストス教会派の伝道師であった。

本井英さんの「大正四年冬の虚子」2022/08/12 07:11

 本井英さんの「大正四年冬の虚子」は、明治32年の病気静養に始まり、大正4年12月の「於糸サン」『道草』一件に至る、虚子の修善寺逗留の軌跡をたどる。 明治40年1月のそれは『国民新聞』に、「修善寺紀行」「五六本の松」「桂川」「白雲」「富士の夕日」「車中」を掲載、後に『俳諧一口噺』として上梓した。 明治41年9月は、前月8月の1か月神田区の自宅で「日盛俳句会」を開催し、最終日に「俳壇引退」を宣言、10月からは『国民新聞』文芸部部長に転身することになっていた、その間の逗留で、『国民新聞』に「修善寺日記」(毎日新聞社版全集所収)として連載した。 9月14日には、東京の松根東洋城から電報で「センセイノネコガシニタル ヨサムカナ」と漱石の「猫」の死を伝えてきたのに対して、「ワガハイノ カイミヤウモナキ ススキカナ」と返電している。 翌明治42年は7月から8月にかけ、正岡子規の母堂、八重、ほか妻糸や5人の子供達まで同道しての「大家族旅行」で逗留、「ホトトギス」8月号掲載の写生文「修善寺紀行」にも詳細が記されている。 修善寺の新井屋を「定宿」として心から寛ぎ、第二の「書斎」として仕事をする場所であるばかりでなく、ふとした沈黙・静寂の裡に「安住」「静止」「冷却」「調和」「死」といったプロセスを心に感じる、虚子に内省的な「心の安らぎ」を覚えさせる土地となりつつあったことをも感じさせる、と本井さんは指摘している。

 虚子の人生にとっての、恐らく最大の痛恨事が起こった。 7月30日に明治天皇が崩御して、大正となった8月に生まれた虚子の四女六子が、大正3年4月22日に短い生涯の幕を閉じた。 その一生は病気ばかりで過ごしたといってもよいほどであったが、虚子は三年後「「死んだ方が此子自身にとっても仕合せだ」と私は幾度も心の中でさゝやいたことがあった」と赤裸々に綴っている(「鎌倉の一日」)。 虚子が大正3年春に味わった苦しみは、「死に行く運命」を背負った我が娘の「死」を、積極的に望んでしまった自らへの叱責の念ということが出来よう。 懊悩する虚子の様子を見て、当時鎌倉に仮寓して親しく交遊していた神津雨村夫妻は、自分たちが参禅している東慶寺の釈宗演禅師の下に参禅しないかと誘ったのだった。

 大正3年11月、虚子は『朝日新聞』に連載する「柿二つ」を書くために修善寺新井屋に逗留し(『国民新聞』に「修善寺日記」を掲載)、12月には「ホトトギス」翌年4月号から連載される「進むべき俳句の道」の企画を構想していた。 本井さんは、「修善寺の霊泉に、虚子をして、さまざまのアイデアを生む効果まであったと考えると、虚子と修善寺の特別の関係が思われてくる。」とする。

 虚子の短編「落葉降る下にて」は、雑誌『中央公論』大正5年1月号に掲載された。 近年逝かせてしまった四女については自分の介護が十分でなかったことへの悔恨を吐露、「凡てのものの氓びて行く姿を見やう」と考えて子供の死を待ち受けていて、その後の墓参では、凡てのものの亡び行く姿、中にも自分の亡び行く姿が鏡に映るように墓標に映って見えた。 「諸法実相」というのはこのことだ、唯ありの儘をありの儘として考える外はないと思った、などとある。

 本井英さんは、現代的な映像作品などに接し、広く「動物界」に眼を転ずれば、鳥類などでは限度を越えて育ち遅れた雛鳥に餌を与えなくなる親鳥の姿を見かけるのは珍しくない、という。 「なるようにしかならぬ」という考えは、発想を転換して、物事を積極的に「他力」に委ねてみるというのも、一つの立場として或る意味合理的と言えなくもない。 そして、それこそが、冒頭の「ボトル・レター」のエピソードに繋がる。 この大正4年12月の虚子の心境こそが、一方で「ボトル・レター」のエピソードを作り、一方では一年半悩んできた「愛嬢の死」への蟠りを解決する糸口になった。 この虚子の考えは、戦後の『俳句への道』中、「もののあはれ 二」の究極の世界観に達し、昭和29年7月の「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」の吟に至り着く、と本井英さんは結論する。

夏目漱石の「修善寺大患」2022/08/13 06:56

 修善寺でまず思い浮かぶのは、夏目漱石のいわゆる「修善寺大患」である。 その時期は、「大正四年冬」と離れていたのだろうか。 漱石の宿は、新井屋旅館だったのだろうか。

 夏目漱石は、『門』の脱稿後、長年の胃腸虚弱による胃潰瘍が悪化し、明治43(1910)年6月18日に長与胃腸病院に入院した。 入院中は、温めた蒟蒻を腹にあてる治療方法がとられ、火傷による火ぶくれに苦しめられた。 治療を終えた頃には患部の皮膚が黒く焦げていたが、漱石の日記には「此黒い色が記念になって年来の胃病が癒れば黒く焼けた皮膚は嬉しい記念である」(7月14日)と、胃病の完治を切に願う心境が垣間見える。

 7月31日に退院した漱石は、8月6日に転地療養のため、当時、湯治先として知られた伊豆・修善寺温泉へと赴いた。 この修善寺行きは、松山中学時代の教え子である松根東洋城の勧めでもあった。 療養かたがた現地で東洋城と俳句に親しむ考えだったとみられる。

 しかし、途中で合流するはずの東洋城が現れず、漱石は御殿場で途中下車し、プラットフォームで数時間待つはめになる。 前日から体調を崩していた漱石は、8月の厳しい暑さも影響して、次第に咽喉を痛めてしまう。 胃の具合が悪くなる前には必ず咽喉の不調を訴えるのが常だった。

 修善寺にようやく到着して、宿泊先の菊屋旅館で湯治を試みるものの、入浴のたびに胃痙攣の発作が起きる始末。 日記には「余に取っては湯治よりも胃腸病院の方が遥かによし」(8月8日)と不平を漏らし、この日以降、病状は悪化の一途を辿る。 漱石の病状ばかりか、天候も荒れ模様となり、東海道地方を中心に記録的な大雨が襲い、汽車や電話が不通に、各地では床上浸水など水害被害に見舞われた。 漱石の子供たちは妻鏡子の母親に連れられて茅ヶ崎へ海水浴に行っており、鏡子はようやく汽車が復旧すると、まずは子供達の元へ行き、その後、修善寺に向かったのだった。

 漱石重病との報を聞き、8月18日、東京朝日新聞社主筆池辺三山の依頼で、五高時代の教え子で社員の坂元雪鳥と長与胃腸病院の森成麟造医師が修善寺に急行。 雪鳥は同日から9月8日までの間、『修善寺日記』と題した日記へ漱石の病状を克明に記した。 19日には鏡子も到着し、看病に当たった。

 8月24日午後8時30分、500グラムの大吐血をして人事不省に陥った漱石は、およそ30分間意識を失う。 鏡子が漱石に代わって記した当日の日記には「カンフル注射15 食エン注射ニテヤヽ生気ツク皆朝迄モタヌ者ト思フ 社ニ電報ヲカケル夜中ネムラズ」と緊迫した状況が綴られている。 漱石危篤の電報は朝日新聞社をはじめ関係者へ送られたが、このうちの鈴木三重吉宛電報2通が岩波書店に残されている。 24日午後11時発の一報は「ビヨウキキトク」とだけ、25日午前2時発には「至急私報」の印が押され、「シユゼンジキクヤセンセイキトク」とあり、予断の許さない深刻な状況が続いていたことが伝わってくる。

 漱石は、奇跡的に一命を取り留めた。 徐々に快方へ向かい、10月11日に帰京。 新橋駅から担架に乗せられ、そのまま長与胃腸病院へ再入院する。 翌日、鏡子から前回の入院では診察に当たり、修善寺に派遣した森成医師には漱石が全快するまで留まるよう指示をした長与称吉院長が、9月5日に亡くなっていたことを聞かされる。 そして日記に、「治療を受けた余は未だ生きてあり治療を命じた人は既に死す。驚くべし」(10月12日)と記した。

『虚子研究号 Vol.V 2015』の虚子、釈宗演2022/08/14 07:57

 本井英さんの「大正四年冬の虚子」に出て来た神津雨村夫妻が虚子に釈宗演禅師の下に参禅しないかと誘った件は、2015年の『夏潮』別冊『虚子研究号 Vol.V 2015』の「虚子研究 余滴の会」が、9月5日に大久保の俳句文学館地下ホールで開かれ、聴きに行って、いろいろ書いていた。

「虚子研究 余滴の会」本井英主宰の「花鳥諷詠の円熟」<小人閑居日記 2015.9.11.>

 あらためて読むと、本井英主宰の「花鳥諷詠の円熟」は、以下のように説く。 四女で「六(ろく)」の死の懊悩を経て、到り着いた境地が、宇宙の運行の中ですべてのものが亡んでいく、そこには「善」もなければ「悪」もないというものであった。 こうしたニヒリスティックな、荒地のような「心」に、美しい「灯」として点されたものが、結果としては「花鳥諷詠」であったと云えなくもない。 それは、大東亜戦争という未曽有の「地獄」をかいくぐる中で錬金されていったものであるということを、確認しておかなければならない、と。

 「俳句」には「季」があるために、総てそこに詠ぜられるところの天然なり人事なりが、特別に美しくなるなり、ゆとりがあるようになる。 即ち「季」があるということのために、俳句は「極楽の文学」と呼べるのだと説く。

 虚子の「ジュリアン・ヴォカンス宛書簡」に、「人生とは何か。私は唯日月の運行、花の開落、鳥の去来、それ等の如く人も亦生死して行くといふことだけを承知してゐます。私は自然と共に在るといふ心持で俳句を作つてゐます。」とある。 これは「花鳥諷詠」が虚子の死生観の根幹に据えられたことを意味している。 人間はこうやって生かされているんだ、という感慨だ。

さらに『虚子研究号 Vol.V 2015』、松岡ひでたかさんの「虚子と雨村、そして釋宗演」を読んで、いろいろと書いていた。

雨村、神津猛と釋宗演<小人閑居日記 2015.9.12.>
釈宗演と慶應義塾・福沢諭吉<小人閑居日記 2015.9.13.>
虚子の参禅、女流俳句萌芽の契機<小人閑居日記 2015.9.14.>
漱石の『門』「父母未生以前本来の面目」<小人閑居日記 2015.9.15.>

 雨村、神津猛は明治25年に慶應義塾幼稚舎に入り、明治32年に普通科を卒業した、「慶應義塾の頃」から俳句を始めた。 釈宗演は、臨済宗の僧、京都妙心寺で得度、明治17年6月、円覚寺塔頭仏日庵に住したが、仏教にも学術が不可欠との考えから明治18年5月、慶應義塾に入り福沢諭吉から洋学を学んだ。 そして、漱石が釈宗演に参禅した『門』にも触れていた。