徳川慶喜家の「墓じまい」<等々力短信 第1173号 2023(令和5).11.25.>(11.16.発信)2023/11/16 07:12

 金沢で東山の金沢市立安江金箔工芸館へ行った。 浄土真宗の盛んな所だから、豪華な金ぴかの仏壇が展示してあった。 しかし近年、全国生産の99%を担う金沢の伝統工芸である金箔の需要が減少していて、その一因に仏壇があるという話だった。

 先ごろ亡くなった加藤秀俊さんは、中公新書『暮らしの世相史』で、早くも2002(平成14)年に「仏壇の消滅」を指摘していた。 いまや都会の団地やマンションには仏壇はなく、少子化は「後嗣」のない「家」の断絶をもたらす。 そもそも、墓をもつ、ということじたいが近代にはじまった習慣であったが、「家存続の願い」は、わずか一世紀の理想、あるいは幻想にすぎなかったのである、というのだった。

 朝日新聞は9月30日から朝刊東京版で4回、「大名家の墓じまい」を連載した(森下香枝記者)。 全国で増える「墓じまい」は、日本社会に根付いてきた家制度が揺らいでいることが背景にあるが、家制度のシンボルともいえる将軍家や大名家も例外ではない。 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、大政奉還後の1868年、徳川宗家(将軍家)の家督を当時6歳の家達(いえさと)に譲り隠居、1902年になって公爵の爵位を与えられ、宗家とは別に徳川慶喜家の創設が許された。 墓所は都指定の史跡、都立谷中霊園に隣接する寛永寺所有の土地300坪にある。 私も1997年に森まゆみさんご案内の福澤諭吉協会の見学会で訪れたことがある。 墓地の中央に慶喜、右隣に正妻美賀子の墓、左端には慶喜家歴代当主の墓があり、いずれも神式の石造りの円墳だ。

 その徳川慶喜家で後継者が当主をつがず、「家をしまう」と決めた。 墓の鍵は、慶喜の玄孫、山岸美喜さん(55)が管理している。 祖父は慶喜の孫で3代目当主・慶光(よしみつ)、4代目当主・慶朝(よしとも)は母親の弟、叔父にあたる。 2017年に慶朝が死去、後を継ぐ子供はなく、徳川姓を名乗る男子がいなくなった。 慶朝をみとった山岸さんが遺言で「相続財産執行人」に指名され、葬儀を行った。 徳川慶喜家の墓や慶喜直筆の書など5千点にも上る史料の責任を負うことになった。 塀を修理するだけで2千万円前後はかかり、個人の財力で墓所などの管理を続けることは難しい。 当主として墓に入るのは、叔父慶朝が最後、山岸さんの代で家を閉じることになり、親族らも同意してくれたという。 慶喜家の墓所は、しかるべきところに文化財として管理してもらったほうがいいと考え、家族の歴史ではなく、日本の歴史として残していく方策をさぐり、寛永寺や東京都、徳川家ゆかりの団体などに相談しながら、「墓じまい」を進めているそうだ。

 8月の短信「松戸の戸定邸」に書いたが、徳川慶喜の子女のうち、成人した者だけで十男十一女あったというのに、だ。 嗚呼、無常。

コメント

_ 轟亭(墓じまい) ― 2024/01/26 07:27

これに関連して、「墓じまい 社会で考えるとき」<小人閑居日記 2024.1.26.>を書きました。

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