「琴弾句会」と講釈「直(すぐろ)に伸びし秋田の杉」2024/09/28 07:01

 秋田から帰った源吉は、騒動のすべての発端は那珂忠左衛門にあり、銀札の発行が混乱に輪をかけたと報告した。 文耕は、俳諧の月次(つきなみ)句会「琴弾(ことひき)句会」に、かつて父と俳諧の仲間だった飯田町の口入屋の誘いで加わっていた。 連衆は十人前後、俳号だけしか名乗らず、互いにどこの誰だかわからない仕組みだが、旗本、大名家の留守居役、千代田の奥坊主、医師、僧侶、商家の主人などがいた。 なぜ「琴弾句会」か、密かな会で、互いに話したことはその場だけで忘れ、誰も何も責めを負わない。 「虚(うつろ)ノ会」「嘘ノ会」、鳥の鷽(うそ)は、鳴き声が琴の音に似ているので、弾琴鳥(だんきんちょう)、琴弾鳥などといわれることからの、名前だ。

 先月の会で、文耕が大岡忠光の屋敷で講釈したことも、話題に出ていたという。 次の暮の会に文耕が出て、秋田騒動を話題にすると、譜代大名の留守居役と目される一人から意外な話が飛び出した。 那珂忠左衛門は、諸芸に通じた粋人で、女の扱いに長けており、とりわけ藩主佐竹義峰の長女である照姫に気に入られていた。 江戸にいる那珂が、藩政をほしいままにすべく国元に一党一派を作り上げる。 義峰の跡を継いだ義真に毒を盛り、次の藩主義明を意のままに操るため女色に溺れるように仕向け、藩の財政が逼迫すると、領民から金銀を吸い上げようと銀札を発行する挙に出る。 出入りの商人を使って札元とし、交換所にしたが、その強引な手法がうまくいかず、物の値だけが高騰する失政を招いてしまった。

 この夏、藩主義明が江戸から国元に入ることになり、那珂一党は失政の実態を知らせまいといろいろ画策したが、忠臣派が決起し、義明も本来の真直な考え方に立ち戻るに及んで、逆襲に成功する。 那珂一党を捕らえて獄に送り、那珂忠左衛門を江戸から国元に呼び寄せ、極刑に処するに至った…。

 明けて宝暦八年。 一月釆女ヶ原で、文耕は満を持して秋田騒動を語ることにした。 題して「直(すぐろ)に伸びし秋田の杉」。 「皿屋敷」を講じたときと同じように人気を博し、楽日には、入場を断らなければならないほどだった。 小屋を出ると、武士が肩を並べて歩き出した。 前に木戸銭を顔でなく身銭で払おうとした痘痕のある、八丁堀北町奉行所の同心だった。 たいそう面白く聞かせてもらったが、佐竹の騒動は生ものだ、又聞きの噂と逃げるには、佐竹の家の内情に入り込み過ぎている。 町蝕(まちぶれ)を四角四面に受け取りゃあ、お咎めがあっても不思議じゃねぇ、気をつけるこった、と言った。

文耕は、同心の忠告を受け入れ、話を少し変えることにした。 随所に、那珂忠左衛門の妾としてお百という女を登場させ、京都の私娼から大商人の妾、さらには歌舞伎役者や吉原の楼主の妻となり、果ては家老職の武士の妾となっていく、波瀾万丈の生涯を送る女として描き、いかにも拵え物風の味付けを加えたのだ。 このお百は、後に現れる「秋田騒動物」の読物や講釈や芝居、さらに近現代の映画に至るまで、「妲己(だっき)のお百」という希代の悪女として、繰り返し描かれるようになる。

文耕の写本『秋田杉直(なおし)物語』は、大正期に三田村鳶魚が編纂した『列侯深秘録』に収められ、活字化されることになる。 ざっと計算して四万字、四百字詰め原稿用紙で百枚弱、現代なら中編ということになる。