馬場文耕、武家社会を生きる者たちを語りはじめる ― 2024/09/20 06:59
沢木耕太郎さんの『暦のしずく』は、8月31日の「終章 獄門 二」で、馬場文耕が獄門に処せられて、連載が終わった。 なぜ講釈師の馬場文耕が獄門に処せられねばならなかったのか。 幼友達だった田沼意次は、文耕の命を助けられなかったのか。
7月29日から8月5日までの当日記で、物語の流れを振り返り、馬場文耕がなぜ優れた剣の腕を持っていたのか、文耕には深川の芸者と吉原の廓主とつながりがあって、世話物講談『深川吉原つなぐ糸は紫』を語って好評を得たところまでを、綴っていた。 その後の展開を、見てみたい。
文耕は、世話物に対する時代物として、歴史を遡った『太平記』のような軍書の世界ではなく、やはりいまの江戸の武家社会を生きる者たちの話をしてみたいという思いが強くなっていた。 しかし文耕の『近代公実厳秘録』は、たとえ写本としてでも、公にするには危険の多い書物だった。 この宝暦7年から遡ること35年前に出された享保7年11月の「町蝕(まちぶれ)」では、大名旗本の諸家のことはもちろん、権現様たる家康公や御当家すなわち将軍家のことは書いたりしてはならないと定められていた。
当初、『近代公実厳秘録』を貸本屋の藤兵衛兄弟のところから出そうとしたとき、兄の藤兵衛は反対した。 その中で大きな部分を占める板倉修理の刃傷事件が、旗本や大名家の御家騒動を暴いたものであるだけでなく、当代の将軍である家重公に手を付けられ、懐妊し、男児を生んだ女中が、吉原の三浦屋に連なる者だということまで記してしまっている。 これはいくら写本でもお咎めを受けないはずはない、と言うのだ。 だが、弟の藤吉は大丈夫、公儀はこんな小部数の写本にまで眼は配ってはいないと言い張ってきかない。 そこで、文耕は一種の折衷案として、この八代将軍吉宗公以来の武辺物の読物で触れている吉宗公について、言葉を足すことで、いかに偉大な御方であったか、これまで以上に誉めそやすことで、この本を咎めようとするのは、吉宗公に対する尊崇の念を咎めることにつながると思わせることができるのではないか、と提案した。 藤兵衛もその方策に感心し、ようやく写本として出すことに同意したのだ。
しかし、写本とは異なり、講釈で板倉修理が殿中で刃傷沙汰に及んだ一件を、それだけ切り離して語ってしまえば、吉宗公を隠れ蓑にすることはできず、明らかに「町蝕」に引っ掛かってしまう。 だが、恐れていても始まらない。 このようなところにまで、公儀の眼が届くはずもない、やると決めた以上はやるしかない。 文耕は、意を決して、読みはじめた。
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