福島県相馬地方の精神科医療と相馬事件2011/07/13 06:29

大震災シンポジウム、全部書く訳にはいかないので、あとは、知らなかった こと、感じるものがあったところだけを書いてみたい。 「医療問題」の三村將(まさる)医学部教授、精神神経科がご専門で、「慶應義 塾救援医療団」として福島県相馬市へ派遣された。 こころのケアは、継続さ れることが重要なのだが、そこで相馬の特殊性に言及した。 相馬地域には今 まで、明治時代の相馬事件の影響で、精神科病院やクリニックが存在しなかっ たというのである。 従来、必要があれば南相馬市や双葉町へ出かけて、受診 していた。 それが福島第一原発事故で、緊急時避難準備区域や警戒区域に入 ったため、相双地区20万人から、精神科医療が消滅することになった。

ちなみに、相馬事件とは、旧中村藩(福島県相馬市)主の相馬家をめぐる御家 騒動事件。 旧藩主相馬誠胤(ともたね)は、1871 (明治4)年に20歳で慶應義塾 に入ったが、1876(明治9)年に精神異常を来たし、1879 (明治12)年以後、それ を理由に屋敷内に監禁されていたのを、旧藩士錦織剛清(にしごりたけきよ)ら が不当なものであり、家令志賀直道(志賀直哉の祖父)の家督相続・財産横領目 当ての陰謀だと訴え、各方面に救出運動を展開した。 誠胤が東京府立癲狂病 院に入院させられ、1884(明治17)年錦織は病院に闖入して誠胤を連れ出したた め、家宅侵入罪で重禁固1年の有罪判決を受けた。 この間、諸新聞はこれを 大々的に報道し世人の注目を集めた。 1891(明治24)年錦織は相馬家の財産差 押えの訴えを起こし、係争中の翌年2月誠胤が急死した。 1893(明治26)年錦 織は異母弟相馬順胤ら8名を誠胤謀殺のかどで告発、順胤側は錦織らを誣告で 告発し、星亨が弁護人を引き受け、同年死体発掘による毒物検査まで行った。  内務省衛生局長の後藤新平は錦織の借金保証人となったために、錦織とともに 誣告罪で拘引された。 毒物は検証されず、錦織は誣告罪で重禁固4年、錦織 を支持してきた後藤新平は無罪となった。

『福澤諭吉事典』によれば、錦織は誠胤が塾生であった関係から、福沢諭吉 にも協力を求めている。 後藤新平は、錦織を支援したのは裁判医学への理解 を促進し、人権を保護するためであり、福沢もこの考えに同調して、錦織を三 田に呼んで事情を聞いたと述べている。 後藤の真意を理解していたのは、福 沢、長与専斎、北里柴三郎らであったという。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック