「錦の舞衣」と三遊亭圓朝の翻案物2012/07/06 02:19

 トリは柳家喬太郎の「錦の舞衣(上)」である。 舞衣を何て読むのかと思っ ていたら、国立小劇場のトイレのそばにたまたま「舞衣」の絵が架かっていて、 「まいぎぬ」と振り仮名があった。 「錦の舞衣」、三遊亭圓朝が「トスカ」を 翻案したもので、歌劇女優トスカは、踊りの名人「お須賀」になっている。 イ タリアの史実をフランス人の作家サルドゥーが戯曲にした『ラ・トスカ』がパ リで初演されたのが1887(明治20)年、圓朝が「錦の舞衣」を発表したのが 1889(明治22)年、プーチーニのオペラ『トスカ』がローマで初演されたの は、何とその11年後の1900(明治33)年だったという。 原作の舞台はナポ レオン軍とミラノ王朝軍が1800(寛政12)年に交戦した「マレンゴの戦い」 だが、圓朝は「錦の舞衣」に1837(天保8)年に起きた「大塩平八郎の乱」を 取り込んでいる。

 永井啓夫著『三遊亭圓朝』(青蛙房)で、圓朝の翻案物を探してみよう。 今 も演じられる「名人長二」がモーパッサンの小説『親殺し』の翻案で、他に次 のようなものがある。 「西洋人情噺 英国孝子ジョージスミス之伝」、「松操 (まつのみさお)美人の生埋(いきうめ)」(←「生理」とお間違いのない様)、 「欧州小説 黄薔薇(こうしょうび)(毒婦娰李伝)」、「稿本 英国女王イリザ ベス伝」。 それぞれ、どんな噺なのか、まことに興味深い。 「英国孝子ジョ ージスミス之伝」のジョージスミスは題名だけで、内容は全く維新後の東京の 話になっており、ジョージは重二郎、スミスは清水なのだそうだ。 おそらく 福地桜痴あたりに聞いた英国の物語をヒントにしたのだろうという。 「松操 美人の生埋」も、福地桜痴に教えられたフランスの「侠客」のことを書いた小 説の翻案で、コウランという名がお蘭、マクスが真葛、チャーレが千島礼三、 パリが江戸、カライが浦賀、ロンドンが天神山になっている。 「黄薔薇」は、 フランスの小説「毒婦ジュリアの物語」(原典不明)が原話といい、これも桜痴 に教えられたと伝えられるが、マクラでは「しかるべき官員さんが口うつしに 教えて下さいました」と言っているという。 「稿本 英国女王イリザベス伝」 は、高座で演じられたことがなく、圓朝没後、遺筐にあった自筆原稿によって 伝えられた作だそうだ。

喬太郎の「錦の舞衣(上)」前半2012/07/07 02:07

 深川の大店近江屋は、芸人や芸術家の面倒をよくみる人で、絵師の狩野毬信 (まりのぶ)と座敷で飲んでいる。 毬信は名人だが、なかなか絵を描かない。  絵が思うようにいかない、惚れた女も嫁にもらえない、という。 女は近江屋 も知っている霊岸島の坂東お須賀、踊りの名人で、いい女。 近江屋が話をし ましょうと、口が上手くて、クーリングオフはしないと大評判(喬太郎、ダイ と言いかけて、オオヒョウバン)の小間物屋で油屋の善八に仲介を頼む。

 ご亭主を持ちませんか。 踊りがまだまだで、あと三十年はかかる。 貴女 を見初めた方がいる、狩野毬信先生、絵を描いても名前を書かない、いつかき ちんとした絵の描ける絵描きになりたいというのに、感心した。 駄目ね、私 は先生に絵をもらった。 「静御前、踊るお須賀」の掛け軸(かけじ)、こんな 絵を描いているようじゃ、まだまだね、と言った。 左の手、踊りをご存知じ ゃない。 筆に墨をつけ、左手のところをゴチョゴチョってやって、毬信先生 に私はこんな風には踊りません、って…。

 毬信は、近江屋に言う。 旦那、私はますます惚れましたよ。 こうして教 えてくれるのが偉い、褒めてくれるだけでは、この間違いに気付かない、よく 汚してくれた。 私は、上方へ行って修業して参ります。

 上方で修業をし、六年間でお須賀の絵を146枚描いた。 私は今日の噺を演 るのは5回目。 江戸に天保7年3月11日に戻った。 お須賀が盥(たらい) に湯を入れ、毬信の足を洗う姿は、まるで夫婦のよう。 146枚目を、見てく れないか。 ハッと息を呑む。 おっ母さん、「静」ねえ、私はこうは踊れませ ん。 毬信とお須賀は、夫婦になった。 しかし、一緒には住まない。 お須 賀は霊岸島、毬信は根津の清水に、それぞれの道を究めるために…。

喬太郎の「錦の舞衣(上)」後半2012/07/08 02:45

 天保8年、毬信は越前様の依頼で、日暮里の南泉寺に天人の絵を描くことに なった。 大坂で起きた大塩平八郎の乱の詮議が五月蠅い頃だった。 絵を描 いていると、寺を訪ねて来る者、詮議の役人、物売り、いろいろ人が来る。 雨 が降って、暗くなってきた。 先生、ご免と、24、5歳のきりっとした、真に いい男が、「鞍馬から牛若丸」ではないが、戸棚から出て来た。 大塩平八郎の 親族、杉田村の宮脇志馬の子息数馬だった。 父は、稲川堤で腹を掻っ捌いて 死んだ。 父が遺言の手紙を、深川で芸者をしている妹と一緒にいる母に渡し てくれといったので、下総から深川へ回った。 妹には会ったが、母は王子に 行っていて会えなかった。 父が万一の時は、先生に会えと申しました。 上 方でたいへん世話になった父上だ、今は根津の清水に住んでいるので、そちら に行っていて下さい。 ここは、さっきも詮議の者が来た。 妹が着物を貸し てくれた。 芸者の形(なり)、似合うな。 御高祖頭巾、履物は駒下駄、桶に 花を挿して行けば、宮脇数馬とは思うまい。

 女房のお須賀が寺にやって来る。 絵は落款を押せば終りだ、名前はまだだ。  座敷に根岸の安達屋さんがみえて、先生に依頼の手紙を12通も書いたのに、 返事がない、芸者の小菊の扇子には寒菊と名前を描いてやるのに、と。 くや しいわ、悋気じゃありません。 天人、天女、よく描けたわね、三番目の天女、 小菊に似てるわね。 さっき擦れ違った人、芸者よね、小菊に見えたけど、背 が高い。 墓参りの帰りなら、桶に花はないはずなのに。 今日の座敷、早く 終わるので、根津に泊まるわ。 根津は駄目だ、今夜は駄目。 ふん、行きま せんよ。

 同心、捕り方の二人連れが、ずかずかと、ご詮議だ、家探しをする。 戸棚 から、芸者の風呂敷包み、中に深川華屋の芸者小菊の扇子が出た。 宮脇志馬 の倅数馬は、小菊の兄だ。 帰れ、帰れ、絵を描く邪魔だ、と狩野毬信。

 金谷の旦那、吟味与力の金谷藤太郎(とうたろう)、歳45、のお座敷。 12、 3年、お須賀にご執心だ。 同心石子伴作と手下が同席している。 下らねえ 貧乏絵描きと所帯を持って、気の毒だ。 脇で女と遊んでいるようじゃ駄目だ、 小菊は色じゃないのか。 岡崎町さんの言う通り、何で南泉寺の戸棚に、小菊 の風呂敷包みがあるんだ。 顔色が悪いな。 お須賀は、座敷を切り上げると、 駕籠で根津清水の亭主の家へ。

 毬信は数馬に、夜が更けてから深川へ参るがよろしい、それまで書斎に隠れ ていて、台所から女(おんな・女中)部屋、薮から山へ出て、団子坂沿いに逃 げろ、と。  お須賀が来る。 そうじゃないんだ、いつか話してやることがある、今は言 えんのだ、たとえ夫婦でも。 今晩は泊っていきますよ。 大きな声を出すな。  家探しをします。 おい、須賀! 焼餅で言うんじゃありませんよ。 とにか く今日は帰りなさい。 そうだ小菊だ、いい仲になった、それで気が済んだか。  今晩は、来ていない。 今日は帰りなさい。

 相済みません、と数馬が出て来る。 やっぱり。 御高祖頭巾を取ると、い い男が…。 相済みません、悋気でした、焼餅焼きました。

 先生、よろしうございますか。 詮議の筋、家ん中、お上の御用で。 女部 屋で、腹一文字に掻っ捌いて、息絶えていたのは小菊だ。 芸者の頭じゃない が…。 先生、いっしょに来てもらいますよ。

朝日新聞の解説「再起動と再稼働」2012/07/09 02:52

 落語研究会の話が長くなって遅くなったが、7月2日の朝日新聞朝刊(14版) は、一面トップで「大飯3号機 再起動」と報じた。 「関西電力は1日午後 9時、大飯原発3号機(福井県おおい町)を再起動した。」 そして関連記事を 報じた「社会」38面で、キーワード「再起動と再稼働」を解説した。 「原発 は原子炉で核分裂させるために制御棒を抜いて「再起動」してもすぐに送電は できない。国の最終検査に合格したうえで営業運転に入る。朝日新聞では一度 止まった原発の原子炉を起動させるのを「再起動」、営業運転に入るのを「再稼 働」と使い分けている。」

 6月15日、私は当日記に「「再起動」と「再稼働」」を書いた。 一般には「再 稼働」が使われている中で、野田佳彦首相が6月8日の記者会見で、あえて「再 起動」という言葉を一貫して使い、それを受ける形で14日、おおい町の時岡 忍町長「再起動」を容認すると述べたのは、いったい、なぜだったのか。 何 らかの意図があるのか、ないのか。 朝日新聞のキーワード解説を読んでも、 その謎、私の疑問は解明されなかった。

入谷朝顔市と槇文彦さんの三田演説会2012/07/10 01:55

鬼子母神境内に並んだ朝顔

 6日(金)は朝、入谷の朝顔市に出かけた。 去年は東日本大震災があって 開催されず、やむを得ないことだが、寂しい夏になった。 例によって、鬼子 母神境内で行灯が竹のものを求める。 佐川急便の伝票を用意して行ったら、 今年は佐川の取り扱いがなく、クロネコの若いお兄さん、おネエさんの手をわ ずらわせる。 下手な字だった。 他人のことは言えないけれど…。

 午後からは、三田の第694回三田演説会へ。 今年は北館ホールで、槇文彦 さんの「言語、風景、集い。日本の都市・建築の近代化の中であらわれた特性」。  建築家、槇総合計画事務所代表。 いらっしゃるだろうと思っていたヒルサイ ドテラスの朝倉健吾さん(同級生)ご夫妻とお会いしたので、一緒に聴く。 槇 文彦さんの建築作品は、代官山のヒルサイドテラスを1969年(41歳)第1期 から1999年の第6期まで(集合住宅、店舗・オフィス、プラザ、ウエスト) 手がけられたのを始め、慶應義塾では図書館新館(1982年)・日吉図書館(1985 年)・湘南藤沢キャンパス(SFC)(1990年)、大分県中津では中津市立小幡記 念図書館(1993年)・風の丘葬斎場(1997年、村野藤吾賞・BCS賞)、その他、 よく目にするものでも幕張メッセ、磯野不動産広尾ビル・三菱東京UFJ銀行広 尾支店、青山5丁目の「スパイラル」(「生活とアートの融合」をテーマに活動 する複合文化施設)、六本木のテレビ朝日本社ビルなどなど、枚挙にいとまが無 いほどある。 一口にくくれば「モダニズム」の建築家といえるだろう。 1928 (昭和3年)生れ、83歳、昔の銀行の重役=バンカーのような典型的「上品な 老紳士」という方であった。

 槇文彦さんは昭和16(1941)年の慶應義塾幼稚舎卒、2年生まで三田に通い、 塾監局のところから東京湾が見えたという。 (6月27日「谷口吉郎設計の幼 稚舎本館」に書いたように、幼稚舎は1937(昭和12)年三田から天現寺に移 転、新進気鋭谷口吉郎設計の新校舎が槇文彦さんのその後にどんな影響を与え たか、まことに興味深い。) 予科まで慶應にいて、建築学科のある東京大学工 学部に入り1952年卒業、1954年ハーバード大学大学院建築修士課程修了。