言語と建築、その地域性と普遍性、モダニズム建築の現在2012/07/11 01:54

 槇文彦さんの講演は、《言語と建築、モダニズム建築の現在》という序論から 始まる。 私が理解できたかは怪しいが、私がそう聴いたところを書いておく。

 まず言語、歴史的にみると世界の各地域の部族にそれぞれの母語が生れ、日 常の生活が営まれた。 交易や戦争で他部族と出合い、優越的な言語ができ、 それがさらに広がり、普遍語(ラテン語、サンスクリット語、アラブ語、漢語) が出て来た。 普遍語は、特権階級がそれを維持し、絶えず進歩させ、他所の 人を説得、恫喝する武器にもなり、経験と知識の囲い込みを行った。 それは 一神教の成立とも関係している。 ローカルな母語と、普遍語が世界各地域に 存在してきた。 普遍語について、槇さんは後で水村美苗著『日本語が亡びる とき 英語の世紀の中で』(筑摩書房)の議論に触れ、この本を薦めた(同書に ついては、当日記2011.2.10.~12.参照のこと)。

 建築の世界でも、ローカルとグローバルの関係は、言語と同じだ。 その土 地(国)特有のvernacular建築と、普遍的なstylistic建築(寺院、教会、モ スク、シナゴーグ、タウンホール、図書館)が共存してきた。 ローカルな建 築はそこにあることによって、普遍的な建築はそれがあることによって、その 存在理由が確認されてきた。 16、7世紀まで、この安定した二項構造が続い てきた。 普遍的な建築も、言語と同じく絶えず進歩してきた。 同じことが 繰り返されると劣化し、新しいスタイルが出る。 工匠建築家の誕生だ。 16、 7世紀、二項構造が崩れる。 ただ国民国家の誕生で国語が生れたが、国民建 築はそれほど流行らなかった。

 今日の普遍的な建築スタイルは、20世紀初頭に出現したモダニズムである。  それは古い規範から解き放たれて、人々の幸せを見出すという、産業革命以後 に醸成されたものから生れた。 モダニズムが、建築のユニバーサル・ランゲ ージになった。 例えば開発途上国の首都、ブラジリアなどで試みられた。

 1989年にベルリンの壁が崩壊し、情報、資本が世界中を飛び交うようになっ た。 グローバリゼーションの進行と共に、そこにある、或いはそれがある建 築の存在理由は消失し、またモダニズムの建築も初期のマニフェスト、或いは スタイルは絶え間なき撹拌機構の中でゆっくりと掻き混ぜられてきて、元は何 だかわからないポタージュ、けんちん汁、ブイヤべースのようになった。 水 村美苗さんが『日本語が亡びるとき』でした警鐘は、建築の世界でも言えるの だ。 モダニズムの進歩は、何が進歩かわからなくなっている。 何でもあり で、どこに何をつくってもよい。 1990年以降はデベロッパー(資金のある人) が大きな勢力を持つようになった。 大きなボートに乗った、ライトやコルビ ュジエの時代ではなくなり、大海原に放り出された建築家は、どうやったら沈 まないで済むか、もがいている状態にある。

《近代国語の誕生と近代建築》2012/07/12 02:17

槇文彦さん設計の慶應義塾新図書館(当日のパンフレットより)

 槇文彦さんは、第一の特性《近代国語の誕生と近代建築》の話に入る。 1850 年頃からの日本の近代化と共に確立された日本の国語は、独特なものであった。  漢字とカナの併用という他の文化に例をみないユニークな言葉として、今日も 使われている。 漢字は表意、カナは表音を意味し、そこで抽象概念と感性の 所産の同時表現を可能にしている。 一例に、雨の表現を挙げる。 漢字では、 理性的・合理的な、驟雨、豪雨、秋雨、私雨(private rain、富士山麓でしょ っちゅう雨が降る等)。 カナでは、感情的・感動的な、ぽつぽつ、ぱらぱら、 しとしと、ざあざあ。 槇さんは、この議論が内田樹さんの『日本辺境論』(新 潮社)にもあることに触れた。 内田さんは養老孟司さんから日本では難読症 が少ない(外国の1/10くらい)のは、脳に理性と感性の「二つの袋」があるか らだと聞いたそうだ。 内田さんは、日本がアニメに強いのは、この漢字とカ ナの文化のためだろうという。(〔馬場メモ〕恥ずかしながら『日本辺境論』は 未読だが、梅棹忠夫『文明の生態史観』第一地域の日本と関連があるのだろう か。)

 それを受けて槇文彦さんは、建築のデザインは知性と感性の袋の間断なきキ ャッチボールによって遂行されると言う。 そのことはアニメと同様に、なぜ 日本の現代建築が重要な発信基地として位置づけられているかの、一つの証左 である、とする。 日本には各年代に、層の厚い建築家が存在し、理性と感性 のバランスがよく取れている。 それには現代化の過程での、日本の建築の教 育システムに理由がある。 東京大学建築学科は、1877(明治10)年に来日 したジョサイア・コンドルが工部大学校造家科講師として日本人建築家を養成 し、明治初期の多くの重要な建築を設計、監督したことに始まる。 また、植 民地化されていなかったことによって、各国の「いいとこ取り」をすることが 出来た。 フランスから料理、イギリスから造船、ドイツから医学、工学とい うように。 建築は、ドイツの大学の教育法を導入した上に、イギリス人コン ドルを招き、両方の「いいとこ取り」をした。 日本には既に工匠清水喜助(築 地ホテル館などを手がけ、清水建設の祖)等がいたが、工部大学校造家科の 第1回生4人、辰野金吾(日本銀行本店、東京駅)、曾祢達蔵(慶應義塾旧図 書館)、片山東熊(東宮御所(今の迎賓館)、東京国立博物館表慶館)、佐立七次 郎(旧日本郵船小樽支店)などが、活躍するようになる。 辰野金吾はイギリ スに留学して、builder(建築業者、トマス・キュービック?)に就いて、実際 に造ることの重要さを学んだ。 曾祢達蔵は慶應義塾創立50年記念の旧図書 館を設計したが、創立125年記念で新図書館を設計した槇文彦さんは第73回 生だそうだ。

 そもそも建築は、日本人に向いている。 設計は少人数でやる。 コミュニ ケーションが取りやすい。 三田の山のようなものでも、4~5人で設計する。

《日本の自然・風景と建築》2012/07/13 01:38

 槇文彦さんは第二の特性《日本の自然・風景と建築》の話に移る。 コルビ ュジエに学んだ坂倉準三は1937(昭和12)年のパリ万博の日本館で、今でい うゴールドメダルを受賞したが、理性と感性の統合された日本最初の近代建築 といわれる(その流れは丹下健三へと続く)。 ヨーロッパは、理性の方が強い。  最初に理屈がなければならない。 日本は、古くから感性が強い。 自然と建 築が、関係している。

 日本列島は海べり、山べりに自然と共生しうる場所が多く、そこから一つの 自然感が生れた。 海辺の集落、山辺の集落(里山)、自然と融合したおだやか な田園風景がある。 その特徴として 、 a. 水平性の強調(地震とも関係している)

b. 非対称の美への関心

c. 都市・建築空間における「奥」性の存在

d. 個から全体の構築、間の概念

e. 回遊性

 等が挙げられる。 これは二千年にわたって海外、主として中国、韓国の文 化の影響を受けながらも、次第に自己化する事が空間(島国ゆえ)、時間的に許 されたからである。 侵略を受けずに、固有の文化を醸成できた。

 集落の原始的形態は、垂直方向に、山があり、山の下に集落があり、山から の川は集落を通って、田圃に注ぐ。 山には奥宮(山宮)、集落には里宮、田に は田宮がある。 「奥」という言葉には、奥義、奥座敷(京都の町屋)、奥庭、 奥の院、奥方、大奥など、見えない中心を表し、それを大事にする意味がある。  槇文彦さんは1978(昭和53)年『世界』に、この「奥」の思想について発表 した。(槇文彦他『見えがくれする都市』鹿島出版会1980年→脚注〔馬場メモ〕)  江戸の町はその形成過程で、細分化されていき、奥に向かって道が出来、さら にそこから細分化されていった。 愛宕神社なども、上にみた垂直の形態にな っており、当時、尾山台(標高15m)、三田(標高25m)も、歩くと空間の襞 の濃密さが感じられた。

 日本の都市は、中心=奥に向かう、求心性がある。 外国の都市は、城壁に 囲まれた中から、外へ向かう、遠心性がある。 アドレス・システムに、それ は表れ、日本は「品川区東五反田5丁目16番地」とあいまいだが、ニューヨ ークのマンハッタンなどだと縦横の道の名前と番号で場所が特定できる。 お 座敷は個の空間だが、その個をつなぐと、多目的に使える、全体像が生れて来 る、非対称のものが生れて来る(桂離宮の配置図を示す)。 日本の建築には「奥」 と「間」という空間の形式の特徴があり、それが日本の都市空間をつくり出す のに重要な役割を果たした。

 槇文彦さんは、ここで2006年に設計した島根県立古代出雲歴史博物館の写 真で、背景の太古と変わらぬ山を見せ、屋上に周囲を眺められるデッキをつく った話をした。 1997年の中津市の風の丘葬斎場では、別れの場では奥の暗さ を取り入れ、時間の経過と共に庭を巡回する形式にして、自然との融合を考え たという。

 〔馬場メモ〕私は「等々力短信」第270号から三回にわたって富士山につい て書き、その第二回、1982(昭和57)年12月5日の第271号に、こう書いて いた。 「書評からの孫引きだが、槇文彦ほか著『見えがくれする都市』(鹿島 出版会)で、槇さんは、富士山や筑波山を見通す線が、江戸の下町の町割を決 める基準線になったという大変面白い指摘をしておられる。槇さんは日本の都 市空間を説明する図式として「奥」というキー・ワードを提示し、それは私た ちの心のなかの原点だという。通りの突きあたりに見はるかされる神の山とし ての富士山は、江戸の町並みを引きしめる「奥」のたしかな標識だったという のである。(昭和55年7月14日付朝日新聞読書欄)」

《集い・駅舎文化の発展》と《結語》2012/07/14 03:06

 槇文彦さんは、第三の特性として《集い・駅舎文化の発展》を挙げる。 江 戸・東京を例として、日本の鉄道=駅舎文化を分析する。

a.  江戸という封建社会における集いの場。 名所。 江戸の名所は、花見の場所や参詣する神社境内などで、そこがコミュニティ ーセンターにもなっていた。

b.  東京の近代化。 ヨーロッパ的首都構築の失敗の中での鉄道文化の発展。

c.  山手線(地価の安い谷の部分が多い、1925年リング状完成)・中央線から 現在の東京の骨格を形成した。

d. 世界に比類をみない鉄道=地下鉄網の形成と駅周辺の都市機能の充実。  都市の血流システムとしてうまく機能し、大きな役割を果たした。

e. 駅舎建築の多様性。  東京駅(辰野金吾設計、1914-2012年)、京都駅(原広司設計、1997年、メ ガストラクチャー)、由布院駅(ポストモダン)、北海道函館本線・比羅夫駅。

f. コンパクトシティ。 未来の鉄道網。  車に乗らなくなった高齢者も利用し易い。

 槇文彦さんは、ここで最近作を二つ紹介した。 今年8月に完成する静岡市 清水区の清水文化会館。 駅と文化センターと清水港の波止場がつながってい る。 東京電機大学が創立100周年記念事業として、今年4月に創設した東京 千住キャンパス。 北千住の地価が、東京で一番の上昇率になった。 門がな く、一切が開かれており、図書館やキャフェ(イタリアン・トマトなども入っ ている)も、市民が使える。 槇さんも、構内に近くの幼稚園から遊びに来て いるのを目撃したという。 新しい社会空間が生れて来ることが、期待される。

 《結語》これら三つの特性からあらわれる日本文化の特質、三つに共通のキ ーワードは「優しさ」である。 スムーズな行き来のできるシステム。 細か いところへの気配り、親切さ(水、風)、それが都市を住みやすくする。  今日、グローバリゼーションが世界的に進行する中で、いかに地域文化を支 えていくかは、大きな課題の一つである。 グローバルな交渉の中で、政治や 経済の分野では、「優しさ」というキーワードは、あいまいで機能しないのが、 一つの問題ではあるけれど。

小池昌代さんの「タタド」2012/07/15 03:20

 図書館の書棚で、小池昌代さんの『タタド』(新潮社・2007年)が目に入っ た。 Alex Katzという人の“Beach House”の絵が表紙になっている薄い本 だった。 評判は、3月に終ってしまったNHK BSの「週刊ブックレビュー」 で、聞いていた。 表題作のほか「波を待って」「45文字」の三短篇が収録さ れている。

 「タタド」は、東京から車で四時間半、イワモトとスズコの海の家が舞台だ。  二十年以上ともに暮している二人は、三年前にこの家を買った。 イワモトは 東京の家にいて週末をここで過ごすが、スズコはめったに東京に出ることはな い。 イワモトは地方テレビのプロデューサーで、中堅女優を聞き手にしたイ ンタビュー番組をつくっている。 出演している女優のタマヨは、四十五をす ぎるころから、ケンがとれていい顔になってきた。 頭がよくて機転がきき、 努力家である。 イワモトと結婚する前、スズコが出版社に勤めていた頃に同 僚だったオカダが、日曜日に寄りたいといって来た。 その日は、タマヨも打 ち合わせに来ることになっていた。

 赤いビートルで、久しぶりにやって来たオカダは、途中猫を轢いたような気 がすると話し、ひどく痩せていた。 見るからに質のいいものを、むかしから 大切に着ていて、素敵だ。 実は大腸の癌だが、「でも、まあ、治るらしいから。」  オカダが来ると、三人で浜に出るのが習慣だった。 前日の強い風で打ち上げ られていたカジメを拾い、ゆがいてサラダにすることにした。 オカダは昔、 残業帰りの晩い夜道で、スズコを抱き寄せて、やや強引にキスをしたことがあ った。 あとにも先にも、ただ一度のことだが。

 夕暮れてきたころ、スピード狂のタマヨがクリーム色のシトロエンで到着し た。 初対面のオカダは、その濃い空気感に魅せられた。 映画の画面を眺め るように、ぶしつけにタマヨを「観賞」している自分に気づきつつ、ついまた、 ぶしつけにタマヨを見た。

 スズコはタマヨがとても好きだ。 五十をすぎてもタマヨは美しい。 スズ コには疲れるとパニックになる病があって、そのパニックをおこしかけたとき に、たまたま傍にいたタマヨが支えてくれたことがあった。 タマヨの体を見 ているだけで、こころが平安に満たされていくのを感じる。 できればずっと 見ていたいと思う。 きょうもタマヨは美しかった。

 四人は、カジメの海藻サラダに、冷えた白ワインで乾杯した。 庭のほうで、 ぼたっと音がした。 夏みかんだった。 半端じゃなく、むちでたたかれるみ たいに、すごくすっぱい夏みかんをタマヨが食べたので、オカダも食べた。 風 が出てきた、暴風雨になるらしい。 オカダとタマヨは泊まっていくことにな った。

 四人は交代でオカダ、タマヨ、スズコ、最後にイワモトの順で、夏みかん風 呂に入った。 タマヨはスズコの、オカダはイワモトのパジャマを着た。 オ カダにはぶかぶかで、どう見ても長期入院の患者のようだ。 箪笥の奥にあっ たペアのパジャマを着た夫妻は、きょうだいみたいねとタマヨにひやかされ、 スズコは確かに互いを地続きの者として感じ、夫婦であることを、とても久し ぶりに恥ずかしく思った。 「パジャマというのは案外、生々しい。眠りに行 く、それはひとつの、いでたちのための衣装なのだった。スズコの胸に、その ときふと死装束という言葉が浮かんだ。」  イワモトがいつも使っているアロエ化粧水を、四人はそれぞれ顔に塗り、「掌 で頬を圧しじっと目を閉じる姿は、宗教者たちの、不思議なサークルのようだ った。」

 という訳で、何かが起こりそうでしょう。 もちろん、起こる。 遅い朝を 迎え、朝食までは、何も起こらないのだけれど…。 あとは、読んで下さい。