木内昇さんの「染井吉野を創った男」2014/12/05 06:44

 2011年『漂砂のうたう』で直木賞を受賞、今年『櫛挽道守』を出した木内昇 (のぼり)さんの本は、一度読んでみたいと思っていた。 刊行時に評判の高 かった『茗荷谷の猫』(平凡社・2008年)を読んだ。 巣鴨染井、品川、茗荷 谷町といった東京の地名がついた、江戸から昭和へと時代も違う九篇の短篇小 説で構成されているが、それぞれ違った物語でありながら、微妙でミステリア スなつながりのあることが、全部読むと判ってくる。

 冒頭の「一・染井の桜(巣鴨染井)」。 徳造は、祖父が商売で大儲けした金 を元手に御家人株を買い取った武家の身分を捨てて、町人になった。 道楽で 始めた草木の世話の奥深さや面白さに取り憑かれて、植木屋(にわかた)に弟 子入りし、ついに染井に自分の店を持った。 妻のお慶は、武士の家の出だっ たが、なにひとつ異を唱えず、巣鴨の裏店(うらだな)で、一日中内職の針仕 事をして、暮らしを補った。 徳造は、桜の掛け合わせに熱中し、五年かけて 変わり咲きの桜を「めっけた」。 江戸彼岸と大島桜を掛け合わせ、葉が出るよ り先に、淡雪に似た花が枝をほぐすようにして咲き乱れる桜は、吉野桜と呼ば れ、すぐに評判になった。 「移ろうから、儚(はかな)いから、美しい」 一 斉に咲いて見事に散る様も際だっているその桜を、江戸の人々は自らの生き方 になぞらえて愛でた。 ひとひらひとひらが、風に舞って吹雪に似た風情を作 ることも、人々を魅了してやまなかった。 桜を造った徳造の名は広く知れ渡 り、巨万の富がもたらされたかといえば、そうではなかった。 徳造は、自分 の編み出した桜の苗を、誰にでもほんのわずかな値で分けてしまったからだっ た。 新種の桜にその名を冠することもなければ、己の仕事だと吹聴すること もなかった。 訊かれれば、苦心して編み出した掛け合わせの方法まで、あっ さり教えてしまった。 植木屋仲間は、金を取る気がないなら、せめて銘打つ なりしたらどうだ、やり方を教えずに苗だけ売ればいい、と談じに来た。 徳 造は、染井でできた桜だから、染井吉野ってのはどうだろうね、というだけで、 桜が広まればいい、名を残すことに興味はない、と答えた。

 その秋口、お慶が流行病の麻疹で死んだ。 徳造は何も変わらなかったが、 お慶がいつも座っていた場所の、針箱や座布団などは、最後に使ったときのま ま、まるでお慶がいるかのようにしていて、手を触れさせなかった。

 「二・黒焼道話(品川)」。 小日向春造(しゅんぞう)は、御一新から二十 年後、下谷万年町の黒焼屋に勤めで修業する一方、秘かに万人の心を穏やかに する黒焼の開発を研究する。 本郷辺の「偏奇館」なる古本屋で見つけた『黒 焼赤蛙漫稿』に「鶏冠の黒焼――気が鬱するとき、心を開かせ、穏やかにさせ る働きがある」「これは服用せず、頭上より振りかけることにて、満願成就とな る」とあった。 一年半いた店を辞め、黒焼の開発に精を出して、煙と臭いで 下谷万年町の下宿を追い出され、人の少ない寒村、南品川のはずれに越した。 

春、品川の町で、下谷の店で師匠と呼んでいた道太郎が赤蛙を売りに来たの に会う。 薄桃色に空を彩っている桜の木を見て、道太郎は言う。 「私はこ の桜を長いこと、吉野桜と呼んでたんだがね、本当は染井吉野という名らしい よ。最近、正式な学名がつけられたんだとさ。奈良の吉野桜と一緒くたになっ て紛らわしいからってね。」「染井に店を開いていた植木屋が、はじめに売り出 したかららしい。ところがその話には裏があってさ、この桜を、御一新前にそ この植木職人が造ったって噂がある。」

「だいたいこの桜は、東京でしたらどこへ行ってもあるでしょう。この桜が なければ春は語れないくらいのものじゃありませんか。それほどのものを人が 作れるわけはないでしょう」と、春造。 「誰かが作ったとしたらすごいこと だと思ってね。私は毎年、この桜を見ると明るい気持ちになるんだよ。心を救 われているんだね」

「七・ぽけっとの、深く(池袋)」。 空襲で父母と妹をなくした戦災孤児の 尾道俊男は、池袋で靴磨きをしていた。 巣鴨の家の焼跡を掘り起こしている と、壺が出て来た。 その壺から黄ばんで風化した紙片が現われ、聞いたこと もない男の名前と、「右は、染井吉野を作りし者 妻、慶記す」と読み取れた。  仲間の健坊に見せると、「きっとこの人は御主人さんの手柄を残したかったんや な。意味はわからんでも、書いた人がその一心やったのはわかる。文は思いや からな」と言った。

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