「虚子研究 余滴の会」本井英主宰の「花鳥諷詠の円熟」 ― 2015/09/11 06:41
5日、『夏潮』別冊『虚子研究号 Vol.V 2015』の「虚子研究 余滴の会」が、 大久保の俳句文学館地下ホールで開かれたので、聴きに行った。 執筆者8人 の内、1人を除く7人の方のお話が聴けた。 専門的なので、私などには、難 しい点もあったが、勉強になった。
本井英主宰は、「花鳥諷詠の円熟」。 昭和12年7月の盧溝橋事件をきっか けに、日中戦争が始まる。 高浜虚子は『ホトトギス』誌上に「戦地より其他」 欄を設け、主として戦線の将士からの便りを掲載した。 雑詠欄にも生々しい 戦場詠が並ぶようになる。 昭和15年、皇紀二千六百年に当たるということ で、12月「日本俳句作家協会」が結成され、虚子は会長に推された。 昭和 17年に『ホトトギス』に連載された俳論「二千六百一年句話」で、虚子は「俳 句」はどこまでも「俳諧の発句」であり、その文芸性の根幹には「連句」があ る。 そう考えることで、無季の句もまた「俳句」の範疇に入れる事が出来る として、従来俳句の埒外に置いて眺めて来た自由律俳句や無季俳句を、俳句か ら出発して分派した俳句の一族として眺めることになった、とやや苦しい胸中 を吐露した。 「花鳥諷詠」に関しては、それが俳句の本質を説明した語であ ると主張し、人々が好いても好かなくても「俳句本来の面目」であると心得て いるとして、「花鳥諷詠」を文学でないと主張する人は兎角俳句の埒外に出て足 を溝渠に踏み外したがる傾きがあるのは、「慎むべき」である、とした。 この 若干のトーンダウンには、会長として「俳句というジャンル全体」を守る立場 になった虚子の苦衷が偲ばれる。 しかし、一方これをチャンスと捉えて本来 深く愛していた「連句」を復権させることも忘れなかったのは、虚子のしたた かな所かも知れない。
敗戦後、虚子は星野立子の『玉藻』昭和22年3月号に「極楽の文学」を執 筆した。 「文学」には、人生の苦しさばかりを描く「地獄の文学」、楽しい人 生、あるいは煩悩があってもその煩悩の鬼が去る、葛藤の糸がほどけることを 描く「極楽の文学」がある。 「俳句」には「季」があるために、総てそこに 詠ぜられるところの天然なり人事なりが、特別に美しくなるなり、ゆとりがあ るようになる。 即ち「季」があるということのために、俳句は「極楽の文学」 と呼べるのだと説く。
虚子の「ジュリアン・ヴォカンス宛書簡」に、「人生とは何か。私は唯日月の 運行、花の開落、鳥の去来、それ等の如く人も亦生死して行くといふことだけ を承知してゐます。私は自然と共に在るといふ心持で俳句を作つてゐます。」と ある。 これは「花鳥諷詠」が虚子の死生観の根幹に据えられたことを意味し ている。 人間はこうやって生かされているんだ、という感慨だ。
虚子にとっての大事件の一つは、大正初めの、四女であり、六番目の子供で あった「六(ろく)」の死。 六は生まれながらにして、欠陥の多い子で、三歳 になっても首が据わらず、口も聞けなかった。 その六に対する虚子の態度は 醒めたもので、死んでゆく生命に途中から冷淡になっている。 虚子の心の奥 底にある動物としての本能は、「その子」の生存を望んでいなかったのだ。 子 のため、親のため、社会のため、死んだほうがいい。 ヒューマニズムより、 もっと原始的な、大自然の、生き物の諦念。 そのことに気付いた虚子は自分 を責めて、悩みに悩む。 折から誘われた「禅」も虚子を救ってはくれなかっ た。
そして到り着いた境地が、宇宙の運行の中ですべてのものが亡んでいく、そ こには「善」もなければ「悪」もないというものであった。 こうしたニヒリ スティックな、荒地のような「心」に、美しい「灯」として点されたものが、 結果としては「花鳥諷詠」であったと云えなくもない。 それは、大東亜戦争 という未曽有の「地獄」をかいくぐる中で錬金されていったものであるという ことを、確認しておかなければならないと、本井英主宰は説く。
虚子はこの世を去る9ヶ月前、「花鳥諷詠」は「新しい提唱」(昭和33年7 月6日「朝日新聞」)であるともいえるとして、こう書いた。 「古来の俳句 の進んで来た道を顧みて見ると、他の文芸とかけ離れた俳句のみの歩んで来た 道があつた。それは春夏秋冬四季の現象を詠ふといふ事であつた。/天地、山 川、動物、植物は固より人類の文化、行事、また人間の喜悲、哀憐、驚嘆、慟 哭、あらゆる感情もこの四季の現象を通して詠ふのが俳句であつた。/敢て花 鳥(あらゆる宇宙の四季の現象を花鳥風月と言ひ、更に花鳥の二字に縮めて) 諷詠の詩として、過去の俳句を認めたのであつた。」
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