ブラック『日新真事誌』の輝く業績と挫折 ― 2015/09/18 06:43
奥武則教授の「ジョン・レディ・ブラックと近代日本のジャーナリズム」の つづき。 ブラックは、1864(文久4)年11月にハンサード商会の共同経営 者になったが、翌65年4月26日には『ジャパン・ヘラルド』の共同経営者に もなっており、その7月8日にはハンサードがイギリスに帰国している。 ハ ンサードから「ジャーナリズムの思想」を受け継いだブラックは、1867(慶應 3)年6月破産して『ジャパン・ヘラルド』の経営から離れるが、10月12日 日刊英字紙『ジャパン・ガゼット』を創刊、1870(明治3)年5月30日には 写真入り週刊新聞『ザ・ファー・イースト』を創刊している。
ジョン・レディ・ブラックは46歳の明治5年3月17日(1872年4月24日)、 東京で日本語の日刊新聞『日新真事誌』を創刊して、花の時期を迎える。 日 刊新聞は明治3年12月に『横浜毎日新聞』が創刊されており、明治5年には、 『日新真事誌』の少し前に『東京日日新聞』が創刊されていたが、どちらも論 説がなく、通俗猥褻な記事ばかりのお粗末なものだったので、ブラックは論説 のある良い新聞をつくる使命感に燃えていた。 奥武則さんは、ブラックには やはり「劣った東洋、優れた西洋」の視点があったと言う。 創刊号でも、「論 説」というタイトルはないが、内容は「論説」的な記事があり、文明開化で外 国人も徘徊する両国浅草などの見世物小屋に、公然と女の陰物や不具の人を見 せたりする野蛮な風習があるのは国辱だと指摘している。
題字の右左に「官許」「貌刺屈(ブラック)」とある『日新真事誌』だが、明 治5年10月30日左院御用となり、11月16日号から「左院御用」の文字が入 る。 左院は(2014年4月26日の当ブログに私も書いたが)、立法の諮問機 関として1871(明治4)年に設置、一般からの建白も広く受け入れた。 『日 新真事誌』は、左院に提出された建白書を掲載することを許可された。 奥武 則さんは、「御用新聞」になったとされるのは誤解で、政府も文明開化の道具と して『日新真事誌』を選び、政府の役人、高等官が「建言」を載せるなど、幸 福な蜜月の時期もあったとする。 1873(明治6)年5月20日には、政府の 財政が大変だという、実質的な大蔵大臣の井上馨、渋沢栄一の「建言」を掲載 している。
1874(明治7)年1月18日、板垣退助らの「民撰議院設立建白書」を「ス クープ」した。 提出翌日の紙面に掲載し、政府部内にあった対立を民衆の前 に開示した。 そして「民選議院」をめぐる賛否の議論を積極的に紙面化し、 「民選議院論争」を主導する。 奥武則さんは、「民撰議院設立建白書」が直接 自由民権運動の高まりに結びついたのではなく、『日新真事誌』に報道された事 実とその視点が「民選議院」開設の社会的論議を巻き起こし、自由民権運動の 高まりをもたらしたとする。 「出来事」と「報道された事実」との間で、ジ ャーナリズムの役割を果したというのだ。 『日新真事誌』は、他の新聞に転 載された記事も多く、公共的な問題における議題設定という点で、日本のジャ ―ナリズムに大きな業績を残した。
ブラックは外国人としての治外法権を利して、政府批判の筆陣を張り、1874 (明治7)年2月には軍事記事掲載をめぐって左院に建白書を提出した。 政 府は1875(明治8)年1月ブラックを左院法制課に「お雇い外国人」として雇 い入れる。 月給300円、住宅手当30円、新聞発行から手を引くことが条件 だった。 『日新真事誌』は一番売れて1万数千部、ブラックはお金が欲しか ったのではないかという。 政府の陰謀で、左院法制課に何の仕事もなく、ブ ラックは左院廃止に伴い、7月7日正院翻訳局に転属になるが、7月31日解雇 される。 一方、同年6月に新聞紙条例を改正して取締りを強化、外国人の新 聞所有と編集を禁じたから、ブラックは新聞界に戻れなくなる。 12月5日『日 新真事誌』廃刊。 1876(明治9)年1月6日、無届のまま『万国新聞』を創 刊するが、発行停止となり、外交交渉になるが、パークス英公使が日和見で、 結局断念することになる。 上海に渡るが、1879(明治12)年病気になって 再来日、『ヤング・ジャパン』(2冊)を執筆し、1880(明治13)年6月11日 死去した。
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