西岡秀雄先生、教科書への疑問、人類学との出会い2023/07/22 07:01

 19日の「湖に年代の物差し「年縞(ねんこう)」」でちょっと触れた大学時代のクラブ文化地理研究会でご指導いただいた西岡秀雄先生だが、軍隊の面接で専攻の考古学を航空学と聞き間違えられて、陸軍航空隊に入隊したというのが、一つ噺だった。 昭和15(1940)年3月、26歳で入隊、以後、中国・東南アジア各地を転戦、ベトナムで終戦を迎え、昭和21(1946)年5月32歳で復員。 その年、10月には木曾御料林の檜の年輪資料を入手、翌昭和22(1947)年1月、日本気象学会で気象七百年周期説の大要を発表した。

 文化地理研究会の仲間Kさんが、昨年1月から大田区立郷土博物館で開催された企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の展示解説リーフレットを送ってくれた。 学生時代、田園調布の西岡先生のお宅には、折に触れて訪れていたが、先生が慶應義塾大学文学部予科に入学する以前に田園調布の遺跡を発見していたことは全く知らなかった。

 西岡秀雄(以下、敬称略)は、大正2(1913)年10月6日に仙台市の生まれ、父は東京電機(後の東芝)のエンジニアで営業部長を務め、大正12(1923)年の関東大震災をきっかけに田園調布に住むことになった。

 東京府立第八中学校(現、都立小山台高校)に入学、日本史教科書の原始・古代部分の内容、『日本書紀』の仁徳天皇以前の天皇が長寿であることに疑問を持つ。 日本史の教員に質問しても満足な答が得られず、近所に住む地質学の大学教授、脇水鉄五郎を訪ねて聞くと、脇水は歌舞伎の襲名にたとえて説明したという。 次に『古事記』『日本書紀』で天照大神の子孫が天皇とされることに疑問を持ち、日本史の教員に天照大神の夫は誰かと質問したため、危険思想を持っているのではと疑われ、退学もありうる大問題となる。 しかし、生物学の教員、岸谷貞次郎が校長を説得し、退学は免れる。

 西岡を個人指導することになった岸谷は、西村眞次の人類学概説書『人類学汎論』を貸し、毎週一章ずつ読んで質問に来るようにと言う。 西岡の一連の好奇心を満たすのは、人類全般について、その発生・変化の経緯を、文献だけでなく、考古学や医学・生物学の面からも総合的に解き明かす、人類学であることを見抜いたのだ、 岸谷の目論見通り、西岡は人類学に熱中し、科学少年は急激に考古少年へと変貌した。

コメント

_ 轟亭 ― 2023/07/25 14:54

展示解説リーフレットの執筆は、林正之さん。大田区立郷土博物館の学芸員かと思われる。

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