司馬遼太郎さんの「八幡神」と神仏習合2005/12/15 08:16

 大村益次郎(村田蔵六)がやった塾の名が「鳩居堂」だったような記憶があっ て、司馬遼太郎さんの『街道をゆく 人名・地名録』を、さらに『この国のかた ち』を読んだ時に作った「索引ノート」を探したが、確認できなかった。 し かし「索引ノート」を見たのは拾い物(セレンディピティ)で、『この国のかたち』 に「八幡神」(振り仮名は「はちまんしん」)のくわしい話が、93神道(一)と98 神道(六)にあった。

 司馬遼太郎さんらしい分かりやすさで、以下のように述べられている。  後世、津々浦々に八幡社がたてられるが、奈良朝までは、豊国(とよくに、い まの大分県とその附近)の宇佐にしかこの神はなかった。 宇佐には、渡来人の 小集団が住んでいた。 仏教渡来の世紀である6世紀の半ば過ぎ、この集団の なかで、「八幡神」という、異国めいた神が湧出した。 この神は風変わりなこ とに、巫(シャーマン)の口をかりて、しきりに国政にかんする託宣をのべる。  欽明天皇32(571)年に湧出した時、「われは誉田天皇(ほんだのすめらみこと・ 応神天皇)である」と、名乗った。 さらに仏教が盛んになると、「古(いにしえ)、 吾は震旦国(インド)の霊神なり。今は日域(にちいき)鎮守の大神なり」と託宣し、 新時代に調和した。

 仏教をもって立国の思想にしようとしていた聖武天皇(701~756)は、「八幡 神」の仏教好きをよろこび、天平10(738)年、宇佐の境内に勅願によって弥勒 寺を建立させた。 これが神宮寺のはじまりになる。 「八幡神」(シャーマニ ズム)が古来の神々(多分にアニミズム)を新時代へ先導しはじめたのである。  さらに聖武天皇が大仏を建立したとき、「八幡神」はしばしばこの大事業のた めに託宣した。 聖武天皇は大いによろこび、大仏殿の東南の鏡池のほとりに 東大寺の鎮守の神として手向山(たむけやま)八幡宮を造営した。 神社が寺院 を守護したのである。 いわば、同格に近くなった。 これが、平安朝に入っ て展開される神仏習合という、全き同格化のはじまりになったといえる。 平 安朝の神仏習合の思想は、神々の本地(ほんじ・故郷)はインドで、たまたま日 本に垂迹した、ということが基礎になっている。 この後が、いかにも司馬さ んらしい。 滑稽だが、思想というのはあくまでも大まじめなものである。 こ の平安朝の思想の先駆をなしているのが、「自分は、むかしインドの神だった」 という「八幡神」の託宣であった、と。