「親王」と「宮家」 ― 2005/12/20 08:57
最近単行本になった吉村昭さんの『彰義隊』は、朝日新聞連載中に読んだ。 輪王寺宮(十三代、公現法親王、伏見宮家出身、のちの北白川宮能久親王)の上 野の戦争からの逃避行と、その後を描いていた。 その頃、併せて読んだ森ま ゆみさんの『彰義隊遺聞』だったか、代々の「輪王寺宮」に親王、それも皇位 継承権のある親王が就いたという記述があったような憶えがあったのだが、そ れを表す言葉が思い出せない。 平凡社の『世界大百科事典』で、「親王」「輪 王寺宮門跡」「宮家」「門跡」などを読んでみた。 すると、きのうの日記を少 し補充しなければならないことが出てきた。
問題の言葉は、そのものずばりは分からないのだが、「一品(イチボンか)」だ ったのではないかと推測された。 「親王」は、大宝令で、天皇の兄弟および 皇子を親王と称し、また女は内親王と称することが規定されたが、親王には一 品から四品までの品位(ほんい、読みは『広辞苑』による)が授けられ、品田(ほ んでん)・品封(ほんぷ)を給されることとなった、とあったからである。
「親王」の項に、以仁王が出てきた。 758年(天平宝字2)淳仁天皇即位の際 に、詔によりその兄弟姉妹を親王と称せしめてから、親王宣下(せんげ)の制が 行われ、皇子であっても宣下を受けてはじめて親王となり、また皇孫以下であ っても宣下があれば親王となる慣行が成立した。 後白河天皇の皇子以仁王は、 皇子にして親王宣下を受けなかった例であり、三条天皇の皇孫たる敦貞王らが 親王宣下を受けたのは、皇孫が宣下を受けた初例である。 きのう「親王家」に「江戸時代には伏見・桂・有栖川・閑院宮の四家があっ た」と書いたが、これはいわゆる世襲親王家というもので、親王宣下の制がさ らに発展して、代々嫡子が親王宣下を受けて宮家を継承するものだった。 皇 嗣以外の皇子はことごとく出家せざるをえなかった江戸時代にあって、これら の世襲親王家は皇統の控えの家とされる一方、皇子処遇の道を広めるため、宮 家に継嗣がない場合には他宮家からの養子を許さず、皇子が入って継承するも のとされた。
最近「宮家」の問題が関心を呼んでいる。 「宮家」の項から、明治以降の 動きを引いておく。 「明治に入って、皇族の諸制度も一新され、世襲親王家 の制は廃止されたが、一方では皇室の繁栄を企図して、法親王の還俗によるも のをはじめとして、多くの宮家が創立された。明治末年の宮家をあげれば、伏 見、有栖川、閑院、山階、小松、華頂(かちよう)、北白川、梨本、久邇、東伏 見、竹田、賀陽(かや)、朝香、東久邇の14宮家を数える。これらの宮家も、大 正年間に有栖川宮、小松宮、華頂宮が継嗣を欠いて廃絶し、次いで1947年に 至り、他の11宮家も当主以下が皇籍を離脱したために宮家の歴史を閉じた。」
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