「『オリジナル神話』という病」 ― 2012/10/30 06:26
読書には著者に共感しつつ、曲解かもしれないけれど、「我田引水」して自己 満足する一面がある。 内田樹さんの『街場の文体論』にも、そういうところ が二、三か所あった。
「等々力短信」を1040号も続け、ブログを毎日更新していると、よくタネ がありますね、どうやって、と聞く人がいる。 何とかなるもので、と答える けれど、自分の経験などはごく限られたもので、どうしても本や何かで読んだ り、話を聞いたり、テレビや映画で見た知識の話題が多くなる。 自分のオリ ジナルな意見や見方ばかりという訳にはいかないのである。 それをいつも、 少しばかり引け目に感じていた。
第12講「意味と身体」に、「『オリジナル神話』という病」なる一節がある。 「読書百遍意おのずから通ず」を引き、声を出して読んだり、「写経」するよ うにノートをとるなど、身体を媒介させると効率的に理解は進むという話の後 だ。 「クリエイティブな言語活動というのは、他人の用法を真似ないことだと勘 違いした人がいた。できるだけ「できあいの言語」を借りずに、自分の「なま の身体実感」を言葉に載せれば、オリジナルな言語表現ができあがると思い込 んだ。でも、これはたいへん危険な選択です。僕たちの言語資源というのは、 他者の言語を取り込むことでしか富裕化してゆかないからです。先行する他者 の言語を習得し、それを内面化し、用法に合うような身体実感を分節するとい うしかたでしか僕たちの思考や感情は豊かにならない。」
「これは日本近代の国語教育を支配していたイデオロギーの悪しき帰結だと 僕は思っています。「自分の思ったままを言葉にしなさい」と教えられてきた。 自分の実感をどうやって素直に表現するか。それが大事だ、と。言葉なんて知 らなくてもいい。漢字なんか使わなくてもいい。手持ちのわずかな語彙と貧し い修辞法だけで表現しなさい。借り物の言葉を使うのはよくないことだと教え られてきた。」
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