内藤湖南は今、何を語りかけるのか2023/11/28 07:02

 「大体人類が作り出した仕事の中で政治軍事などは最も低級なものであるが、日本がいま政治軍事において全盛を極めているのは国民の年齢としてなお幼稚な時代にあるからである。中国のように長い文化を持った国は、政治に興味を失って芸術に傾くのが当然のことである。今や東洋の中心となった日本が中国に代わってその政治や軍事を行ってもなんら不思議ではない。」(「新支那論」)

 高橋源一郎さん…これは困ったもの、侵略を正当化しているように読めて「つまずきの石」になる。中国は古い大国で、蘇らせるためには他者の刺激が要る、かつては匈奴や元、今回刺激を与えるのは日本という立場。

 岡本隆司教授…中国文化、東洋文化にたいへんなリスペクトを持つ。中国が先進国で、宋代に近代を実現している。得意な若い奴(日米)に政治軍事を任せて、落ち着いた人(中国)は芸術に打ち込む。今日的常識から言えば侵略だが、協力し合っていくべき日中の関係が悪くなっていく。中国にも、日本にも絶望している。

 高橋源一郎さん…切羽詰まっている。大正から昭和にかけて、アメリカと戦争するのかという機運が、知識人に生れた。やむにやまれずに、敢て書いた。

 湖南は大学を退職して、京都 瓶原(みかのはら)、木津川市、奈良との県境に、終の棲家「恭仁(くに)山荘」を建てる。 蔵書を大切にして、コンクリートの書庫に5万冊を収めて、学問をする者は、ここに来いと。

 昭和6(1931)年、満州事変。 満州国建国、溥儀皇帝。 湖南は日満文化協会の設立に貢献した。 湖南は癌に蝕まれていたが、満州国国務総理鄭孝胥(ていこうしょ)が山荘を表敬訪問したのと会談、2か月後に亡くなった。

 湖南は知人に「日本人の力と熱をもってすれば、必ず一度は中国大陸を支配するでしょう。しかし底知れぬ潜勢力を持っている中国の土地と人民を到底長く治めきれるものではありません。中国を支配したために日本は必ず滅びます」と、語っていた。 京都大学に近い法然院に葬られた。 辞世の句「わがからをたからとおしむひとはあれど我がたましひをいかにせんとか(どうすればいいのか)」 日中戦争勃発は、3年後のことだった。

安田峰俊さん…中国共産党は皇帝独裁体制をある程度改善した。今、ITで個々の国民を把握できる。「皇帝独裁2.0」が、今の中国。

 高橋源一郎さん…日清戦争が日本最初の自己認識だった。外に鏡がないと人間成長しない。中国は日本人の鏡。1945年までそれで来て、戦後薄くなって、今また妙な濃さで迫って来た。それをどう考えるか。真剣に考えて、湖南の考え方を一度通過して見ることが必要だと思う。パールバックの『大地』が出て、日本には中国の民衆を描いた小説が皆無に等しかったことに気づいた。圧倒的多数である農民を詳しく書いた人がいたか。つまり、一般民衆のことは無視だった。中国を本当に知っているのか。何かを知るのは、本当に大変。

 岡本隆司教授…今こそ中国を知るべき時。湖南が重視したのは、歴史の原理を知ること、昔からどう変わっているのか。

 磯田道史さん…明治大正の日本を指して、ようやく我々は宋代にやって来たと、湖南は書いた。ドキッとした。宋代はエリートを試験で選ぶ。内容は四書五経と詩、あんまり生産につながらない。金持が子供に実の役に立たないものを教えて、科挙を通らせようとする。それを反復していって明清の時代にまずいことになった。日本もひょっとして、宋代から、平成令和と、明清の時代に入っているんじゃないか。

深まる日中の溝、中国市場にアメリカ2023/11/27 07:10

 内藤湖南の描いた中国から、今日の大国化した中国、日本の今後の中国との関係をどう読み解くのか。 まず、中国の自立した平民社会という問題がある。

 関西大学の陶徳民教授…湖南は現実の局面と歴史の底流、両面から中国の情勢を把握していく、そういう複眼的視野を持っていた。

 岡本隆司京都府立大教授(中国近代史)…湖南は明治の年と同じ年齢、漢学の伝統の上に西洋の学問を吸収、摂取、融合させて新しい文化、学問をつくっていく、横断的な、日本の近代を体現した存在。どこから始まっているのかがわかれば、どこから弊害が起こるか、利点、短所、長所が理解できる。表面だけでなく、対象の仕組みを歴史から全部見る。

 安田峰俊さん(ルポライター、東洋史を学び中国をフィールドにノンフィクション作品を発表)…一昔前までの中国、地方の村に泥棒がいない、もしいたらボコボコにされる。権力が末端まで届き切らない。

 高橋源一郎さん(作家)…国家と個人の間にある、中間共同体重視。地縁、血縁、職業組合など。トランプ現象の分析に、アメリカの中間共同体(保安官のいる自治)の没落をいう人がいた。

 支那情勢は、湖南の期待と別の展開を見せる。 大正3(1914)年第一次世界大戦が勃発、日中に暗い影がさし、大正4(1915)年日本は山東省のドイツ租借地を占領。 大正8(1919)年パリ講和会議で、山東権益が認められると、学生の反日デモが起き、学生は伝統文化を攻撃し、西洋文化を吸収しようと主張する。(思想革命)

 湖南は、中国書画の鑑賞会を京都南禅寺天授庵で開く。 王羲之の名品などで愛好家を誘い、清朝崩壊で流出した書画を日本にもたらしたいと考える。 北宋水墨画の傑作、大阪市立美術館蔵の《読碑窠(か)石図》伝 李成・王暁(阿部房次郎コレクション)など は、それによる。

 大正6(1917)年、湖南は外務省の依頼で中国を視察した。 アメリカの資金で建てられた数々の大学の充実ぶりに驚く。 教育の力で中国にアメリカ文明を広めようとしている。 対米依頼、対日恐怖の感情が広まっていた。 大正10~11(1921~22)年、アメリカ主導のワシントン会議が開かれ、アメリカの中国市場への関心が示され、中国に対する9か国条約で門戸開放、機会均等が決められた。 湖南は、この動きを警戒し、「新支那論」でアメリカを非難する。 日本は資源のない国、資源の豊富な英米主導の世界秩序に異議申し立てをする。 中国市場でアメリカに追いつめられた日本は真っ先に破裂すると、後の日米対立を予言した。

内藤湖南が見抜いた中国の本質とは?2023/11/26 07:38

 内藤湖南、知の巨人が見抜いた中国の本質とは? の問題である。

 明治44(1911)年辛亥革命が起こり、清朝が崩壊へ向かう。 孫文は共和制を宣言し南京に中華民国臨時政府を作るが、北部は袁世凱が軍閥の勢力で支配していた。 国内安定を優先した孫文は、皇帝の退位を条件として、臨時大総統の地位を袁に譲るが、ひとたび権力を握ると袁は革命派を弾圧、革命の成果をなし崩しにしていく。

 湖南は『支那論』で見解を発表する。 近代中国の起源を歴史的に考え、千年さかのぼり、唐 五代 十国、北宋に至り、「唐宋変革論」という学説を出す。 宋代に「君主独裁政治」が確立する。 唐の時代までは、皇帝の力は貴族によって制限されていたが、貴族が没落して、皇帝が絶大な権力を握る。 統治のために置かれた官僚は、税金を集めるだけで権限はなく行政を行わない、任地を転々として金儲けをするばかり、無責任という社会の弊害を生む。 社会の憤懣が溜まるたびに、王朝が交代する。 清朝崩壊も、その延長線上にあった。

 もう一つ、より重要な近代中国の特徴に、「人民の力」があった。 北宋時代の人々の暮らしを描いた《清明上河図》、貨幣経済が行き渡り、平民の暮らしは活気にあふれている、反面、官僚があてにならないため、平民は地縁、血縁、職業組合に頼った。 インフラから、教育、貧困者の救済まで、暮らしのすべてを自力で賄うようになった。

 強大な権力を持つ君主と、自立した平民社会、それが湖南が見抜いた中国社会の本質だった。 湖南は、旧知の仲だった中華民国国務総理の熊希齢(ゆうきれい)に提案する、『支那論』はその助言だった。 歴史の中で培われた自治制の長所を生かせば、目指す共和制の国家に近づけるのではないか、と。

「この自然に発動する流れは、表面の激しい流水の底で、必ず一定の方向に向かって、緩く、重く、鈍く、強く、推し流れているのである。その流れを見るのが、日本の諸問題を解決する鍵である。」(「支那論」)

内藤湖南、中国問題の第一人者2023/11/25 06:59

 22日の根津美術館「奇跡の展覧会」「北宋書画精華」で、中国史家で北宋絵画の重要性に気づいた内藤湖南という名前が出て来た。 『英雄たちの選択』が内藤湖南を取り上げたのを思い出した(2022年3月21日BSプレミアム)。

 内藤湖南は、慶応2(1866)年秋田毛馬内(鹿角市)の南部藩の儒学者の家に生れ、本名内藤虎次郎、父に漢学を仕込まれ、明治16(1883)年18歳で秋田師範学校へ進学、英語に情熱を持ち、明治20年上京、英語学校で学んで、雑誌社に入って認められ「萬報一覧」を書くジャーナリストとなり、世界情勢に目を向け、なかでも隣国の清朝に強い関心を持った。 やがて大阪朝日新聞社で論説担当者となり、中国問題の論壇第一人者として外務省の対華政策にも献言する。 明治40(1907)年、師範学校出のジャーナリストなのに異例の抜擢で、狩野亨吉(かのうこうきち)によって京都帝国大学に招かれ、2年後43歳で教授、東洋史学担当、翌年文学博士になった。

 『英雄たちの選択』は「千年のまなざしで中国をみよ 内藤湖南が描いた日本と中国」の題で、知の巨人が見抜いた中国の本質とは? だった。 内藤湖南(1866~1934)は、型にはまらないスケールの大きさ、扱う時代の広さ、空間の広さ、学問分野の制限がなく、全球的視野で物を書いた。 中国のあらゆるものに関心を持ち、大阪府吹田市の関西大学には、『永楽大典』から甲骨片、満州のホテル領収書まで、収集と保存の鬼だった湖南の5万点に及ぶ「内藤湖南文庫」がある。

 日本人は福沢諭吉のような知識人も含めて、明治27、8年の日清戦争で清の脆弱性が露呈したことによって、日本がアジアの盟主であるという感覚を持ってしまった。 軽率な者は、中国を守旧の代表として見る。 しかし、内藤湖南は文明を相対化して見ていて、中国は停滞などしていない、特徴ある文明を持ち、日本以上に西洋と接触しながら進歩してきたとする。 政治制度の改革を長い歴史の中で考えると、「経世思想」、学問を政治行政など治世に役立てる実践的な思想、スキルがあった。 現実社会の問題を解決するために、歴史を実証的に検証する姿勢が培われていた。 湖南は、中国の経世家の著作や経世済民の実践をずっとフォローして、一生懸命吸収し、実践した。 日露戦争で、明治38(1905)年奉天を占領すると、清朝誕生の都だったここで、残された多くの歴史文書の実証的研究をし、自他ともに許す中国通となった。

根津美術館「奇跡の展覧会」「北宋書画精華」2023/11/22 06:49

 「天声人語」から、「十牛図」の作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)と調べた後、たまたま「日曜美術館」を見たら、根津美術館で「奇跡の展覧会」という「北宋書画精華―きっと伝説になる」が開かれているのを、やっていた。 北宋絵画は中国芸術史上最高峰の一つで、後世「古典」とされ、千年もの昔に、無限に広がる奥行、印象派のような光や空気の描写、リアルな表現に成功した。 しかし、世界的に数が限られ、中国や台湾でも一度しか展覧会が開かれておらず、日本でも初めての展覧会だという。

 北宋(960~1127)は河南省開封に都があり、貴族でなく科挙に合格した官僚が治める文治政策をとって、中国政治の転換点となった。 社会の安定とともに経済が発展、開封は人口100万に達する世界最大級の都市になる。 書画、工芸などの諸芸術も高みに達し、とりわけ山水画は頂点を極めた。

 北宋三大家の一人、李成(款)《喬松平遠図》10世紀(澄懐堂美術館蔵)、これも三大家の一人、(伝)菫源「天下第一」と箱書にある《寒林重汀図》10世紀(黒川古文化研究所蔵)の大きな作品。 絵巻物で、燕文貴《江山楼観図巻》(大阪市立美術館蔵)、李公麟《五馬図巻》(現、東京国立博物館蔵)、さらに李公麟《孝経図巻》(メトロポリタン美術館蔵)も、今、一同に会している。

 そんな名品が、なぜ日本にもたらされたのか。 解説をした板倉聖哲東大東洋文化研究所教授(東アジア絵画史)は、80年ぶりに発見された《五馬図巻》を見たときは、手が震えて、全身汗になったと言う。 1912年の清朝崩壊時に、欧米への流失を懸念し、中国の文物を守りたい、アジアのものはアジアに留めたいと考えた、中国史家で北宋絵画の重要性に気づいた内藤湖南や関西財界のコレクターたちの存在があった。 李成(款)《喬松平遠図》を入手したのは、山本悌二郎(1870~1937)台湾の製糖業で財を成し、戦時、蒐集品を三重県四日市に疎開させ、その地に澄懐堂美術館をつくった。 燕文貴《江山楼観図巻》は、阿部房次郎(1868~1937)東洋紡の社長などを務めた関西経済界の重鎮。選りすぐった蒐集品160点を大阪市立美術館に寄贈した。 (伝)菫源《寒林重汀図》を昭和10年に1万8千円で入手したのは、二代 黒川幸七(1891~1938)証券会社の二代目、実務は番頭に任せ、中国書画、骨董の蒐集に没頭し、内藤湖南と交流があり、《寒林重汀図》の「箱書」は湖南。 蒐集品は兵庫県西宮の黒川古文化研究所にある。