いわゆる「楠公権助論」2008/06/11 07:09

 (3)比喩の自動運動が、物語的なところまで行き着く(達する)。  『学問のすゝめ』第七編「国民の職分を論ず」の、いわゆる楠公権助論。 こ こはほとんどウェーランドの修身論の引き写しなのだが、最後に福沢の筆が走 り出す。 「彼の忠臣義士が一萬の敵を殺して討死するも、この(使いに行っ て主人の金を落した)権助が一両の金を失ふて首を溢るも、其死を以て文明を 益することなきに至ては正しく同様の訳にて」(80頁) 福沢はプラス・マイ ナス両面で、ジャーナリスト的感覚を持っていた。 忠臣義士と、「アレゴリー」 としての権助を並べることは、神話破壊的。 話をどんどん大げさにして、馬 鹿馬鹿しさを際立たせる。 こうした軽やかな「アレゴリー」の運動は、福沢 の言説の象徴的な部分で、落語や講談の教養から来ているのだろう。 新しい 比喩を発明することは、それほどない。 誇張はすごいが、言われてみればな るほどというもので、出来上がった体系の中から取り出し、思いがけない場所 まで連れて行ってくれる。 だから分り易い。 論理を軽やかに展開するため の「アレゴリー」の駆使だといえる。

 日本の言説空間は、福沢以後、「象徴(シンボル)」の時代になる。 「万世 一系の天皇」など、日本内部の有機的なシンボルにとりこまれていく。 そこ には福沢が軽やかな「アレゴリー」で展開したイデオロギー批判の、自由で、 大らかな楽天性が見られず、重苦しいものになっていく。 それは1880年代、 日本近代の転換と平仄を合わせている。

 以上、私なりに松浦寿輝さんの「福澤諭吉のアレゴリー的思考」をまとめて みた。

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