福沢の時代とイギリス ― 2008/06/22 06:52
「紫陽花ゼミ」で「福沢は門徒だった」話はしなかったが、福沢の時代がど ういう時代だったかを伝えるために、司馬遼太郎さんのイギリスについての文 章を少し読んだ。 それは『街道をゆく』「アイルランド紀行」の「明治の悲し み」にある。
「英国が魔物であったという歴史的認識なくして、十九世紀のアジアは理解 できない、ということなのである。日本の明治維新の成立(1868年)も“魔物” から併呑されまいとしたためのものだったということを鍵(キー)にしなけれ ば、すべてがわからない。
また中国近代史は、阿片戦争(1840~42年)からはじまる。その後の中国 近代のながいくるしみや混乱も、この“魔物”が出発点をなしている。植民地 インドについてはあまりにも直接的で、ここで言うまでもない。
英国がやってくるまでのアジアは、自己の古い――ぼろぼろになってしまっ たような――文明に自家中毒するほどに肉厚くくるまれていた。ところが当時 のアジア人は、相手が“魔物”であるとは思いつつも“魔物”が代表している ヨーロッパ文明については、感歎する資質をもっていた。
たとえば、アジアは物事を総和としてとらえたがるが“魔性”の文明は、分 析という能力をもっていた。また機能的で、さらには蠱惑(こわく)的なほど スマートで、また力づよくもあった。なにしろ大砲と軍艦という一国をぬりつ ぶすほどの兵器と、工科系の技術と、それにひとびとをなっとくさせ、かつ国 家の運営をうまくやれる法体系と法思想をそなえていた。」
そして私は、福沢諭吉(1835~1901)の時代が、ヴィクトリア女王(1819 ~1901)の治世(1837~1901)に重なること、その64年の長さは昭和天皇と の同じであることを述べた。 さらに奥様の小尾芙佐さんが、一昨年秋、光文 社古典新訳文庫の創刊に際して訳されたシャーロット・ブロンテの『ジェイン・ エア』も、その妹エミリー・ブロンテの『嵐が丘』も、1847年の出版で、その 年、弘化4年は福沢が数えの14(満12)歳で、初めて正式に漢学を白石照山 (常人。つねと)の塾で学び始めた年にあたることを話した。 その新訳本を 手にするまで、ブロンテという名は知っていたが、三人もいる姉妹作家だとは知らなかったことも、告白して…。
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