福沢は門徒(浄土真宗)だった ― 2008/06/21 06:41
「紫陽花ゼミ」の準備中、あれこれ道草をしていて、知ったり、思い出した りしたことがあった。 たとえば「福沢家は武士なのに、門徒(浄土真宗)だ った」という司馬遼太郎さんの指摘である。 司馬さんは産業経済新聞記者と しての駆け出しの頃、京都支局で大学と宗教を担当していたから、仏教のこと に明るかった。
『街道をゆく』「中津・宇佐のみち」に、その話はある。 浄土真宗は、江戸 期以前、一向宗と呼ばれた。 加賀や三河の一向一揆、信長と石山本願寺の合 戦など、一向宗は戦国期をゆるがし、どの大名も一向宗をおそれた。 薩摩の 島津氏は、江戸期いっぱい念仏停止(ちょうじ)、つまり一向宗禁制だった。 島 津氏ほどでないにしても、ほかの大名も家臣に一向宗門徒がいることを好まな かったから、大名に仕える場合、一向宗であることをやめて浄土宗(京都の知 恩院など)に転宗したりした。 その点、中津奥平家は寛容というか、福沢家 は武士にして浄土真宗であるなど、風変わりであった、というのである。 私などは、それは福沢の家が「足軽よりは数等宜しいけれども、士族中の下 級」(『福翁自伝』)の身分だったためだろうと思った。
司馬さんは『福翁自伝』に「安心決定(あんじんけつじょう)」という浄土真 宗特有の用語があることをとらえて、江戸期の武士でこのような特別用語を使 った例は、福沢のこの『自伝』ぐらいではないか、という。 さらに、明治の 士族の中で浄土真宗の教養に通じていたのは、おそらく福沢一人だったろう、 とも書いている。
そこから考えてみると、福沢のコミュニケーション活動に浄土真宗の影響が 大きかったことが浮んでくる。 平明達意の文章の手本にしたという蓮如の「御 文章(おふみさま)」、その蓮如はご存知、室町期の浄土真宗中興の祖である。 スピーチ(演説)の練習を始めたとき、西洋語でなければスピーチは出来ない という森有礼に「君は生来、寺の坊主の説法を聴聞したることなきや、説法を 聞かずとならば、寄席の軍談講釈にても、滑稽落語(ばなし)にても苦しから ず、都(すべ)て是れ、一人の人が大勢の人を相手にして、我が思ふ所を述る の法なれば、取りも直さずスピーチュなり」と、反駁したという(『福澤全集緒 言』「会議弁」)。 司馬さんも、福沢が演説の模索中に、浄土真宗の法話を思っ て安堵したといい、浄土真宗では説教が重んじられ、門信徒については「聞法 (もんぼう)」をもって第一とせよ、といわれてきた、と書いている。
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