石部秘書「西川先生最後の一年」2010/08/03 06:55

 西川俊作先生が38歳の時から、39年間秘書を務めた石部祥子さんが、「西川 先生最後の一年」という報告をした。 先生は1998年の教授退任の直前に、 心臓が悪くなり、四つの弁の内、二つの具合が悪かった。 加えて煙草が原因 の肺気腫になり、酸素ボンベと共に出勤していた。 2009年4月、清家新塾長 の誕生を喜び、且つ心配する。 続いての樋口新学部長についても同様。 5 月初め、三田のオフィス西川の賃貸契約を更改、2年後の『防長風土注進案』 論文の上梓を期す。(『三田評論』4月号、速水融さんの「西川俊作さんを思う」 によると、『注進案』は幕末期に編纂された長州藩の記録で、経済調査としては 日本で最高の資料。これを経済学的に分析すれば、当時の地方経済の状態が日 本で最も明確になる。) 6月6日、心臓病が悪化、意識を失い、危篤状態が続 いたが、3日間人工呼吸器を着け、強制睡眠したのが効を奏し、緊急入院した 千葉西病院から10日で主治医のいる済生会中央病院へ転院できた。

 しかし『注進案』論文は「畢生の大作」を「小作」に変更の決断をする。 7 月15日に退院、回復傾向になり、体重も増えてくる。 9月14日、産業研究 所設立50周年会合、自宅にて会場と電話で懇談。 最初は「ふん」と言って いたが、30分前から玄関階段横のアナログ電話の前に待機、早見均所長の厚意 を喜ぶ。 11月は週1~2日(火・金)、オフィス西川に出勤(石部さん往復同 伴、酸素ボンベも)、12月は『注進案』論文の完成急ぎ、書き続ける。 26日、 速水融先生文化勲章受章祝賀会に出席、五分間の祝辞を述べ、旧交を暖める。  80名の出席者、知らない人は誰もいないと言う。

 2010年1月初め、年賀状書き、300枚印刷のうち100枚ほど投函。 1月 26日、今年初の出勤(電車で)、『注進案』日用挊(かせぎ?)のある村の数を 調べたいといい、数えて満足する。 帰途3時過ぎ、たまたま東館前で速水先 生と出会い、軽い冗談を交わす。 タクシーで帰宅、珍しく浅草橋まで石部さ んに同乗を請う。 27日、午前3時頃、不調を訴え鎌ヶ谷総合病院へ。 救急 車を待つ間、ご家族のように付き合っていたご夫婦に自ら連絡、4時に出る。  病院に着いた時には意識なく、6時59分心不全で急逝される。 1月30日、 市川斎場で告別式、親族、ごく親しい知人3名と石部さんのみ参列。 戒名、 読経無し。 3月13日、市川市営霊園に納骨。

 7、8割方出来上がっているという『防長風土注進案』論文の、資料、ダンボ ール10箱は、速水研究室に移され、『1840年、長州経済の見取り図』(仮題) としてまとめられることになっているそうだ。