『現代語裏辞典』刊行記念パーティ(2)2010/08/25 06:39

 筒井さんが司会して、一人ずつマイクを持ってしゃべった。 私は神戸市垂 水区の筒井邸に向かう坂道に、神戸市下水道局が句碑建立を計画中だという情 報について話した。 『現代語裏辞典』の、  げすいどう【下水道】糞尿をあつめて早し下水道。 である。 この項目のアイディアを出した私は、句碑の除幕式の折にはぜひ呼 んでいただきたいと、申し上げたのであった。 言うまでもなく、口から出ま かせの情報である。 ほかにもご採用のアイディアを三、四挙げたが、 ついし【墜死】ペタジーニ。 以外、余り受けなかったのは、遺憾であった。 字ヅラを見ないと、面白く ないのだろう、ということにした。

文藝春秋の上野さんは昭和40(1965)年入社、雑誌『漫画読本』で筒井さ んを担当したのが編集者のスタートだそうだから、学年は一年下の勘定だ。  『現代語裏辞典』の発行者になっている庄野音比古さん(常務?)は、私より 十年下、1994年の連合三田会大会で一緒に広報の仕事をした。 ロカンダF.Q. で文藝春秋の若い人に、偉そうに、よろしく伝えてくれと言ったら、今日も来 る予定だったんですが、という話だった。

後藤象二郎と福沢<等々力短信 第1014号 2010.8.25.>2010/08/25 06:40

 明治30(1897)年の夏も、暑かったらしい。 政治もまた停滞し、閉塞状 態にあったようだ。 8月4日に後藤象二郎が亡くなり、福沢諭吉は6日の時 事新報に「後藤伯」と題する社説を書いている。 今の政府は、部内の情実の ために百事停滞、活動の活機を欠くこそ目下の弊恨にして、あたかも昨今の天 候と同じに、暑気蒸すが如く、人を悩殺せしめて、ほとんど堪え難き有様なの に、満朝(政府全体に)一人の自ら奮ってその弊恨を破る者がいない。 この 時に当って風雷一発、天地を振るい動かして、積り積もった諸悪をはらい除い て清めることは、非常大胆の豪傑でなければ出来ない。 後藤伯のごときは、 この一点において、満天下唯一の人物で、今の朝野に伯のほかにこの大任に当 たれるものはいなかったのにと、後藤象二郎の死を、惜しんでいる。

 『福澤諭吉書簡集』第二巻「ひと」によると、後藤象二郎は、天保9(1838) 年、土佐国高知城下片町に生まれ、義叔吉田東洋に学び、中浜万次郎に海外事 情を聞き、鶴田塾に通った。 文久3(1863)年航海見習生を経て、江戸に出 て開成所に入り、航海術、蘭学、英学を学んだ。 福沢との出会いは未詳だが、 あるいはこの時期であったかもしれない、という。 元治元(1864)年、帰国 し、岩崎弥太郎と開国策を草し、大監察に任じられ、慶應元年、勤王党を断罪 し、藩の実権を握った。 薩摩、長崎、上海で、藩官業樟脳の売却と、艦船、 銃砲の購入にあたり、坂本竜馬と出会い、公武合体策を山内容堂に説き、慶應 3(1867)年将軍徳川慶喜を説得して大政奉還の建白を行わせた。 福沢は、 これを後藤最大の業績と評価し、上の弔文でも「明治革新の基を開きたる一事」 「非常に大胆の人物、如何なる大事に当たりても毫も驚かず」と書いている。

 佐賀藩とイギリスのグラバー商会が共同でわが国最初の洋式炭鉱として開発 した高島炭鉱を、明治6年新政府が買収、官有とし、明治7年後藤象二郎に払 い下げる。 後藤はその時、ジャーディン・マセソン商会から代金と運転資金 を借り入れたが、経営が放漫であったため利益が上がらず、負債が累積して、 商会から返済を求める訴訟を起こされる。 福沢は後藤の政治的資質を惜しみ、 放漫経営による経済的破滅を心配して、高島炭鉱の経営を三菱に移すことを良 策と考え、岩崎弥太郎にも提案する。 その時はまとまらなかったが、1年9 か月の曲折を経て、明治13年7月、岩崎は炭鉱の買収を決意する。 三菱の 経営で、高島炭鉱は巨額の利益をあげるようになった。