後藤象二郎と坂本竜馬2010/08/28 06:10

 つぎに奈良本辰也編『明治維新人物辞典 幕末編』(至誠堂新書・1966年) で、「後藤象二郎」を読む。 慶應2(1866)年に幕府が長州再征に失敗すると、 幕府を救済すべき公武合体論は、ほとんど無力なものとなった。 武力討幕に 傾く薩長に対して、土佐藩の立場はしだいに弱体化せざるをえなかった。 そ うしたなかで後藤は、同年から慶應3年にかけて、武器や軍艦購入のためにし ばしば長崎に滞在した。 長崎には薩摩藩の保護をうけて、海運・商事活動に 従事する坂本竜馬の亀山社中があった。 竜馬と会見した後藤はその脱藩の罪 を許し、亀山社中を土佐藩名義の土佐海援隊と改組した。 かつては尊攘派で あり、今またはっきりと反幕的態度をとる竜馬の鋭い見識が、事態の進行を的 確にとらえているとみたからである。

 慶應3年5月の四侯会議が不調に終わり、薩摩の実力の前にあって幕府の無 力もいよいよ明らかとなった。 武力討幕を避けようと苦慮する後藤は、竜馬 の新国家構想を知らされて歓喜した。 有名な『船中八策』である。 後藤は ただちに薩摩藩との間に武力討幕延期の密約をとりつけ、将軍慶喜に大政奉還 を建白して、10月ついにそれを実現させた。 こうして維新の政局は一度は土 佐藩が主導するかにみえたが、12月9日の王政復古クーデターにつづいて、翌 明治元年戊辰戦争が勃発して、公武合体派の延長としての後藤の努力はむなし いものとなった。

 話は『明治維新人物辞典』「後藤象二郎」から変わるが、福沢諭吉は慶應2 年6月下旬に『西洋事情』初編を脱稿、初冬に刊行した。 世に広く読まれて、 攘夷から開国への転換期に、多大の感化を与えた。 坂本竜馬も読んだのであ ろうか、『船中八策』にその影響を指摘する人もいる。