55年ぶりの『風立ちぬ』2013/08/05 06:17

 宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観て、堀辰雄の『風立ちぬ』を読む人は、どの くらいいるのだろうか。 私は55年ぶり位に読んでみて、当然ながら、すっ かり忘れていた。 年譜を押えておく。 昭和9(1934)年、30歳の堀辰雄は 7月から12月まで信濃追分の油屋旅館に滞在したが、9月、前年軽井沢で知り 合った矢野綾子と婚約した。 翌昭和10(1935)年7月、許嫁の病状がすぐ れず、自分の健康もよくないため、許嫁に付き添って富士見のサナトリウムに 入った。 サナトリウムで、前からの腹案である「物語の女」の続編(後に「菜 穂子」となる)の構想を練り始めたが成功しなかった。 12月、矢野綾子死去。 

昭和11(1936)年7月から(翌年まで)油屋に滞在、12月「風立ちぬ」(「序 曲」「風立ちぬ」の二章)を『改造』に発表する。 昭和12(1937・33歳)年 1月「冬」を『文藝春秋』に、3月「婚約」(後に「春」と改題)を『新女苑』 に、昭和13(1938)年3月「死のかげの谷」を『新潮』に発表して、「風立ち ぬ」は完成する。 4月、加藤多恵子と結婚、『風立ちぬ』(「序曲」「春」「風立 ちぬ」「冬」「死のかげの谷」)野田書房刊。  『風立ちぬ』を読む前に、軽井沢、信濃追分、八ヶ岳、富士見の位置関係を、 地図で確認しておくことを、おすすめする。

 『風立ちぬ』の「序曲」。 「それらの夏の日々、一面の薄(すすき)の生い 茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもそ の傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方にな って、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に 手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした 塊(かたまり)に覆われている地平線の方をながめやっていたものだった。よ うやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつ あるかのように……」

 「春」と改題された「婚約」では、はじめて出会ってから二年、節子と私は、 八ヶ岳山麓のサナトリウムへ行く準備をし出していた。 「僕はこうしてお前 と一緒にならない前から、何処かの淋しい山の中へ、お前みたいな可哀らしい 娘と二人きりの生活をしに行くことを夢みていたことがあったのだ。お前にも ずっと前にそんな私の夢を打ち明けやしなかったかしら? ほら、あの山小屋 の話さ」「実はね、こんどお前がサナトリウムへ行くと言い出しているのも、そ んなことが知らず識らずの裡(うち)にお前の心を動かしているのじゃないか と思ったのだ。」

 二年前の夏、不意に口を衝いて出た「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩 句が、「又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、……云わば人生に先立った、 人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々であっ た。」

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