長嶋の解説〔昔、書いた福沢19〕2015/03/05 06:30

    等々力短信 第321号 1984(昭和59)年5月15日

               長嶋の解説

 ゴールデン・ウィークの間に、おそまきながら、『新潮』2月号、平川祐弘氏 の「進歩がまだ希望であった頃」を、読んだ。 『フランクリン自伝』と『福 翁自伝』をくらべて、似ている点をたくさんあげながら、あれこれ考えた360 枚の大論文である。 簡単に詠めるつもりでいたのが、とんでもない話で、ふ うふういって、連休最終日の6日に、ようやく読み終えた。 平川氏は結論で、 『フランクリン自伝』がアメリカ文学史で受けているような第一級の扱いを、 『福翁自伝』も日本文学史の上で受けるべきだ、と言う。

 自分の本が売れ、これを人まかせにしては損だと、出版業を始めた福沢諭吉 も、印刷屋から文筆家になったフランクリンも、ともに、平明達意の文章でな ければ読者に買ってもらえぬことを、肌身にしみて知っていた、と平川氏は指 摘している。 それを読んだ直後の同じ6日の晩、日本テレビの巨人広島戦で、 長嶋茂雄の解説を聞いたのだ。

 長嶋の解説は、評判が悪い。 髙い声で損をしている面もあるが、しゃべり すぎも目立つ。 それにしても、あの聞きづらさは、どこからくるのだろう。  「いろいろの要素はあるでしょうが、序盤のリーグ展開から見れば、大変有意 義な三連戦」、「ですから、なすべき使命感の割り切りが、なされていないんで すね」、「特に人工芝野球というのは、このパターンのですね、一番得点の入る 確率が多いということですね、また仕掛けも非常に応用が広がってきます」、「タ ブーと言われるアッパー・スイングと、タブーと言われるダウン・スイングの 中間」。 書いてみると、これは話し言葉でないことに気づく。 目につくのは、 漢語とカタカナの使いすぎだ。 もっと、やさしくて、わかりやすい言葉を、 使ったらどうだろう。

 福沢諭吉は、「大臣」をやめて「番頭」に、政党も「立憲自由党」や「改進党」 という、いかめしい漢語の名前をやめて、「め組」や「ろ組」にしたらどうかと 言った。 文章を書く時も、山出しの下女に障子越しに聞かせても、何の本か わかるようにと工夫したという。 監督当時、長嶋の難解な言葉が、山出しの 選手(といって失礼なら)最近の大学や高校出の選手に、通じないということ は、なかったのだろうか。 福沢もフランクリンも、平易な文章を書いたから こそ、社会を動かしたのであった。

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