西郷隆盛の「征韓論」は「遣韓論」だった2016/02/24 06:32

 佐藤賢一さんの小説『遺訓』の第二回(『波』2月号)は、「三、征韓論」か らだった。 「二、武村」では、前年明治6年の政変で下野し、鹿児島の武村 に隠棲している西郷隆盛を、酒田県の両参事松平権十郎親懐と菅(すげ)善太 右衛門実秀(さねひで)の名代として、酒井玄蕃(げんば)了恒(のりつね) が訪ねていた。 戊辰の役で西郷が長岡にいた時、北の秋田の戦場から無類に 強い庄内藩二番大隊を率いる「鬼玄蕃」の異名が聞えてきた。 藩主家に連な る千三百石取の家の出で、庄内藩では江戸市中取締、番頭、近習頭取、中老と 担い、大泉藩でも権大参事を務めた。

 西郷は酒井玄蕃に、自分の主張は征韓論でなく、遣韓論だったこと、その使 節も自分で務めるつもりだったと話す。 談判決裂となって、殺されるような ことになれば、そのとき初めて戦争にすればよい。 酒井は、しっくり腑に落 ちた、南洲先生は元治元年の第一次征長でも、長州側に単身乗り込み、話し合 いで解決、見事に戦を回避なされた、慶應四年の江戸無血開城も勝先生と談判 して遂げられた、と言う。

 たまたま、池波正太郎の『一升桝の度量』(幻戯書房・2011年)という随筆 集を読んでいたら「維新の傑物 西郷隆盛」というのがあった。 初出は、『時』 昭和41(1966)年5月号である。 「征韓論」について、こう書いている。  戦後の書物が「朝鮮との戦争をひきおこすことによって、下級武士の不平を外 に発散させ、また陸軍元帥としての勢威を保とうとした」などと、きめつけて いるように、なんでもみな、西郷一人に、あの事件の始末を押しつけてしまっ ている。 国交を承知せず、日本を馬鹿にして暴慢なふるまいが多かった朝鮮 に対し、「戦うべし!!」と叫んだのは、他の政治家や軍人である。 西郷の孫 にあたる西郷吉之助氏は、祖父が右大臣三条実美にあてた書簡に「兵隊を朝鮮 に出すという議論があるが、そんなことをすると戦争になりかねない。このさ い、朝鮮と親善関係をむすぶ大使を派遣するのが先決だ。自分が腹をきめて談 判してくるから、ぜひ使節にやってくれ――と、強く平和の遣韓指節を要望し たものだ」とある、と言っている。 後に、村田新八に、「あのとき、どんな口 実をつけても、わしが朝鮮へ行きたかった。行けば、おそらく、おだやかに話 はついたろう」と言った。 西郷の使節就任はきまりかけたが、欧米視察から 帰った岩倉、大久保など反対派の暗躍によって、明治6年10月、ついに会議 は決裂した。 そして西郷は破れ、官位の一切をすてて故郷・鹿児島へ隠棲す ることになる。

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