旗本と御家人、江戸の武家事情2016/02/13 06:26

 『つまをめとらば』で初めて知り、興味深かったのは、幕藩体制下の武家の 事情や職制についてである。 特に江戸の旗本。 改めて『広辞苑』の【旗本】 を引くと、「江戸時代、将軍直属の家臣のうち、知行高が1万石未満の直参で 御目見(おめみえ)以上の格式のあった者。御目見以下を御家人という。」とあ る。

 「乳付」で、神尾信明は家禄四百石とけっして大身でしないけれど、れっき とした旗本、しかも両番家筋である。 そこへ嫁す民恵の父、島崎彦四郎は御 家人、御目見以下の徒目付(かちめつけ)、役高は百俵五人扶持だ。 でも、も し勘定所の資格試験である筆算吟味に合格すれば、勘定所の中堅である勘定の 役高は百五十俵と差は二十五票だが、旗本となる。 「御家人でいる限り、徒 目付より上はもう望みようもないが、勘定の席に連なれば役料含め四百五十俵 の勘定組頭が、さらには役高五百石役料三百俵の勘定吟味役さえ視野に入って くる。そしてなにより、御家人と旗本では、周りから向けられる眼差しがちが う。」

「江戸は畢竟、旗本の町である。」 「五千二百家余りの旗本でも、遠国(お んごく)奉行や町奉行に上り詰めるための登竜門である両番、即ち小姓組番(ぐ みばん)と書院番組(ばんぐみ)の番士に取り立てられる家筋の家は、千五百 家ほどしかない。」 「当主の信明が、二十八歳にして、本丸書院番三番組に初 出仕したのである。」「両番家筋とはいっても、誰もが書院番組と小姓番組(? 組番か)に番入りできるわけではない。資格を持つ家は千五百家ほど。そして、 本丸と西ノ丸の両番二十組を合わせた番士の枠は千名である。」「けっして残る 三、四分の五百家のなかに数えられてはならない。」

 「逢対」の竹内泰郎(たいろう)は幕臣で、一応、旗本の末席に連なっては いるが、父子二代の無役(むやく)、小十人筋の貧乏旗本である。 閑を生かし て、屋敷で算学塾を開いている。 「小十人筋というのは、御当代様をお護り する五番方のひとつの、小十人組に番入りすべく定められた家筋だ。とはいえ、 小十人組の編制はひと組二十人が十組で、総枠二百名。これに対し、小十人筋 は千二百家を越える。つまり、千を上回る家が番入りできないことになる。」 「その上、旗本の家禄は、少なくて百五十俵という一応の目安があるにもかか わらず、歩行の番方である小十人筋に限っては、四家に一家の家禄が百俵より も下だった。俗に言う“貧乏旗本”(傍点)は、元はといえばこの小十人筋を指 す。旗本であるにもかかわらず、御目見以下の御家人よりも低い家禄の家がざ らにある。」

 同じ小十人筋で幼馴染みの北島義人は、毎日「逢対(あいたい)」を続けてい る。 「逢対とは、登城する前の権家(けんか)、つまり権勢を持つ人物の屋敷 に、無役の者が出仕を求めて日参することである。老中、若年寄はもとより、 小普請組組頭、徒頭(かちがしら)、評定所留役、勘定奉行……考えられるあら ゆる屋敷を回る。」 座敷や廊下に通され、要人をひたすら待ち、そのときがき ても、声を発してはならない、顔を覚えられ、声がかかるのを待つ。 「その 辛抱に五年、十年と耐えても、出仕に結びつくことはほとんどない。傍から見 れば不毛でしかない逢対を、義人は十六のときからもう十二年つづけている。 それも毎日欠かさずだ。」