福沢諭吉と西郷隆盛2016/02/26 06:25

 ここで佐藤賢一さんの小説『遺訓』を離れ、福沢諭吉と西郷隆盛の関係につ いて書いておきたい。 探してみると、ほとんど論考がない。 1977(昭和52) 年5月28日の福澤諭吉協会総会の記念講演に、富田正文先生の「福沢諭吉と 西郷隆盛―『丁丑公論』百年―」があり、『三田評論』773号に掲載されている が、これは手元にない。 それで富田正文先生の『考証 福澤諭吉』(岩波書店) の索引で「西郷隆盛」を引いてみると、おそらく富田先生が講演で話されたで あろう大筋が浮かんで来た。 主に下巻「三九 明治十年西南の役」の、「諭吉 と西郷隆盛」「西南の役と諭吉の運動」「西郷の死と『丁丑公論』」のところであ る。

 福沢は、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通という維新の三傑のうち、西郷隆 盛とはついに一面識もなしに終わった。 しかし、お互いにその人物を認めて、 互いに敬慕の情を懐いていたことは、いろいろの事実で立証できる、と富田先 生は言う。

 福沢は、東京府からの依頼で、市中の治安警備の法を制定するために、アメ リカの百科事典を調べて「取締の法」という報告書を提出した。 その報告に 加え、ちょうどその頃ヨーロッパ視察から帰ったばかりの実弟西郷従道や山県 有朋らの熱心な勧めもあって、明治4年に西郷隆盛が上京した時、多数の訓練 兵を率いて御親兵の中核としたばかりでなく、別に薩摩から多数の壮丁を募っ てポリス制度を創設した。 そのとき西郷は、幕下の市来四郎を福沢のところ へ派遣して、ポリス制度のことにつき教えを乞わしめた。 これが西郷との最 初の接触だと見られるという。

 慶應義塾開塾以来明治10年までの薩摩出身の入門者は130名で、その内明 治4年から8年までの者は90名を数え、とくに明治6年が最も多く、35名も いて、その内2名は西郷隆盛自身が保証人になっているそうだ。 その2名の ひとり、高橋仲二(ちゅうじ)が学友の須田辰次郎に語ったところによれば、 西郷は薩摩から来ていた子弟に慶應義塾に入学することを勧め、ある日、太政 官からの帰り途に、芝の日蔭町の古着屋街にわざわざ立ち寄り、角帯を数本買 い求めて来て、「お前たちはこの帯を締めて行かぬと福澤塾へは入れてもらえぬ ぞ」といって、与えたという。 義塾では漢学書生流の風体を好まず、着実な 商家の息子のような風采が行われていたのを、西郷は知っていて、好ましく思 っていたのであろう。

 富田正文先生は、福沢が最も強く西郷の存在を意識したのは、廃藩置県の大 変革が西郷の一諾によって成ったことを知った時だろう、とする。 何百年来 の封建制度を、一朝にして郡県制度に変革しようというのだから、新政府の要 人たちも躊躇逡巡するのも無理なかった。 山県有朋の説明を黙って聞いた西 郷は、一言「承知しました」と答えたという。 最後の御前会議でも「恐れな がら吉之助が居りますから叡慮を安んぜられますように」と言上して決断され たという。

 戊辰戦争で東北を平定すると、西郷は東京に凱旋せず、さっさと薩摩に帰っ て日当山(ひなたやま)温泉に引きこもった。 富田先生は福沢の書簡の中に こうあるのを見出して驚いたという。 明治10年11月14日付の長沼村民宛 書簡「維新の際、奥羽の討伐は専ら西郷等の意に成りたれども、会津落城の後 は身を以て旧領の幾分歟(か)を復せしめん事を乞ひ、其乞を聴(ゆる)され ざれば髪を削て遁世せんとて山間に退去する迄に至れり。」

 平素の生活態度の簡易率直で人情味にあふれ、しかも一諾よく国家の大事に 任じて動くことのない偉丈夫としての面目を、福沢は西郷のうちに見出して、 限りない敬慕の念をいだいていたようである。

 明治6年の政変で、鹿児島に隠棲した西郷だが、読書は怠らなかったようで、 明治7年12月11日付の東京の大山弥助(のち巌)宛書簡に「福澤著述の書難 有御礼申上候。篤と拝読仕候処、実に目を覚し申候。先年より諸賢の海防策過 分に御座候へ共、福澤の右に出候もの有之間敷と奉存候。」とある。 「海防策」 は護国の方策とでもいう意味であろうが、これだけではどの書を読んだ讃辞な のか明らかでない。 後に『文明論之概略』が出版された時も、西郷が読んで、 少年子弟に薦めたと、福沢が『福澤全集緒言』に書いている。 旧名市来七之 助のちの石川県知事野村政明の懐旧談にも、市来の少年時代、西郷が『文明論 之概略』を読んで、その識見の高邁、議論の卓抜なるを称賛してやまなかった ことを福沢に告げたところ、福沢は西郷のことばを真の知己の言として喜んだ そうだ。 以上が、富田先生の「諭吉と西郷隆盛」の概略である。