女の強さと、したたかさ、哀れなり男2016/02/15 06:29

 青山文平さんの『つまをめとらば』で、最も印象に残るのは女の強さ、した たかさである。 男たちは、閉塞した時代に順応し、なんとか折り合いをつけ て、生きている。 例えば「つまをめとらば」の深堀省吾は、山脇貞次郎にこ う言われる。 「諦めがよい、というよりも、揉め事がいやなのかもしれん。 というよりも、穏やかなのが好きなのだろう。目の前がごたごたするくらいな ら、進んで退(ひ)く」 「事なかれ、ということだな」と、省吾も己の性癖 は意識していた。 妻たちからは一様に優柔不断と責められた。 妻たちは、 けっして折れない質で、言い分は決まって、「私はまちがっていない」というも のだった。

 「つゆかせぎ」の大久保家の勝手掛用人は、俳人の父の傍らにいて、幼子が 言葉を覚えるように俳諧を詠み始めた。 江戸に出た父の突っかい棒になった と同様に、自分には俳諧という「解き放たれた言葉」が必要だった。 十四歳 になると、蕪村と並び立つ俳諧中興の雄、加舎白雄の春秋庵に送り込まれ、俳 壇で名前を知られるようになる。 二十七歳で手代を務めていた折、大久保家 の奥様から直々の呼び出しがあり、奉公に参った者たちが、そなたに俳諧の添 削を願い出ている、と言われる。 娘たちの武家奉公には給金がなく、生きた 稽古をする女の学校なのだと教わる。 木挽町の芝居茶屋の娘だった朋は、役 者たちの句会を手伝っていて、そこに招かれた自分を見初めた。 元々、歌舞 伎役者は、俳諧を詠むことができて当り前と見なされており、一人一人が俳名 を持っている。 尾上菊五郎家の松緑や、中村歌右衛門家の芝翫など、俳名が そのまま名跡となった例は珍しくない。 朋は二十一、獰猛とも思えるほどの 美しさを持っていた。 そして最初から自分に縁づくために近づけるよう、大 久保家に奉公したのだった。 まんまと、その掌に乗って、結婚することにな ったが、少しくらいは抗えてもよかったのではないか。 「折に触れて考えつ づけているうちに、ふと、大本は、女ならではの、揺るぎない自信なのではな いかと思うに至った。/あらかたの男は、根拠があって自信を抱く。根拠を失 えば、自信も失う。」

 「妻となってからの朋は、その確信に満ちた様子で、しばしば私に、いつ業 俳になるの? と尋ねた。/業俳というのは、俳諧を生業(なりわい)とする 俳諧師のことで、私のように別に本業のある者は、遊俳と呼ばれる。」

 業俳にならずに十七年が経ち、朋が急な心の臓の病で死んだ。 地本問屋が 訪ねて来て、朋は二年ほど前から竹亭花月の筆名で戯作を書いていて、人気だ ったことが、判明したのだった。

私は2月2日の「福岡伸一さんのコラム「動的平衡」」に書いた、男は「哀 れなり。敬愛する多田富雄はこう言っていた。女は存在、男は現象。」を思い 出したのだった。