早稲田の町と大学野球部2017/07/11 07:12

 『早稲田わが町』の安井弘さんは1934(昭和9)年生れ、戸塚第一小学校で 軽井沢から草軽電鉄で行く草津に学童疎開し、早稲田中学では永六輔さんとず っと同じクラス、当時商家の子弟が多く学んだ早稲田実業に進んだ。 早稲田 大学のある青春の町で、65年間寿司を握り続けてきた。 夏休みなど休みの多 い学生町で商売をしていくのは大変なことで、それは昔も今も変わらないとい う。 その思い出話には、いろいろな人が登場する。

 早稲田大学に野球部が出来たのは明治34(1901)年、その翌年に安部磯雄 教授の熱意と情熱で専用球場(戸塚球場、戦後は安部球場)ができる。 明治 38(1905)年、安部部長率いる野球部はアメリカへ遠征、ルールや理論、技術 を本場で学んできた。 例えば、ウォーミングアップ、試合中の選手交代、ワ インドアップ、バント、ヒットエンドラン、盗塁、スライディング等々から、 「フレー、フレー」の応援の仕方まで。 早大創立50周年の昭和7(1932) 年、記念事業の一つに夜間試合用の照明設備の建設があり、翌昭和8(1933) 年7月10日、鳩山一郎文部大臣の始球式で早大二軍対新人の試合が行われた。  町の人たちはナイターを「電気野球」と呼んでいたという。 野球場は昭和63 (1988)年から東伏見に移り、総合学術センターが出来たが、安部磯雄・飛田 穂洲(初代監督)両氏の胸像が建っている。 野球部では、谷口五郎、久慈次 郎、市岡忠雄、伊達正男、三原脩、藤本定義、南村侑広の名が出てくる。

 昭和初期、合宿所にも近い茶屋町通りからグランド坂に出るあたりに飲食店 が数軒あり、学生に人気の「テキサス」という喫茶店に可愛い女性妙子さんが いて、三原脩選手との恋が噂となり、彼は退部となってしまった。 その後、 二人はめでたく結婚、三原さんは草創期の巨人軍に入団、戦後は巨人・西鉄・ 大洋の監督として智将ぶりを発揮した。 「テキサス」の隣に、安井弘さんの 記憶では「双葉」という母娘の店があり、その娘さんが女優、小桜葉子になっ た。 「小桜さんは明治の元勲岩倉具視卿の曽孫で、俳優上原謙さんの奥様・ 俳優加山雄三さんのお母さんです。」とある。

 八幡鮨の向かいに「南風荘」という麻雀屋さんがあり、母親と可愛い姉妹の 家庭的雰囲気で人気、いつも満卓、高松一高出身の上春三郎一塁手も常連で、 目はパッチリで色白のお姉さん(安井弘さんの二年後輩)と結ばれた。 石井 連蔵さんの同期で鎌倉学園出身の枝村勉さんも、この町の女性と結婚した。 早 稲田実業の先輩で王貞治さんの野球の師、荒川博さんは、早稲田実業門前にあ った文房具店「実業堂」の娘さんと結婚した。 荒川さんは、結婚前から、新 学期の忙しい時などに「実業堂」を手伝っていた。 安井弘さんが校内の臨時 の売店で教科書やノートを買うと、荒川さんが渡してくれるのだが、当時すで に早稲田大学のライトで活躍していたので、受け取る時、緊張したと書いてい る。

高田馬場の植木屋と、横浜「富貴楼」お倉2017/07/12 07:10

 安井弘さんの『早稲田わが町』を読んで、知ったことの続きである。 天保 の改革で、幕府の植木用達を務めていた九段の佐藤彦兵衛(二代目)は、他の 二名の庭師、三河島の伊藤七郎平、向島の萩原平作とともに、豪壮な居宅や庭 園の取り払いを命じられ、近くに植木屋の多い高田馬場・下戸塚の荒井山に引 っ越して来た。 彦兵衛には、長男常吉、次男亀次郎、三男吉之助がいた。 長 男常吉は家督をしっかり受け継いで三代目になるが、江戸で一番のいい男と噂 された遊び人亀次郎は、父の金で遊んで暮し、勘当されて兄と弟に迷惑をかけ た。 亀次郎は、新宿の遊女お倉と所帯を持ち苦労の連続の末、二人は明治2 (1869)年、活気あふれる横浜で商売をして頑張り、明治4(1871)年、駒形 町にあった料理屋を買い「富貴楼」の看板を出した。

 三男の吉之助は、向島の萩原平作の養子になり、三河島の伊藤七郎平の娘を 娶ったので、天保の改革で追放にあった三軒の植木屋は、全て親戚となった。  吉之助は萩原平作を継ぐが、維新の時、強盗に遭うなどして全財産を失う。 そ の三人の子の内、長男庄吉は高田馬場の伯父の三代目彦兵衛宅へ(のちの五世 清元延寿太夫)、二番目の兼次郎は横浜富貴楼の伯父のところへ、末の秀作は望 まれて五代目尾上菊五郎の養子へと、それぞれ引き取られた。 庄吉は11歳 になると、横浜富貴楼の伯父亀次郎とお倉の居候になり、そこで聴いた清元に 感動、稽古してみようという気になった。 井上馨も、伊藤博文も富貴楼の客 だった関係で、三井物産が出来た時、15歳で物産会社の小僧になる。(『延寿藝 談』)

 横浜富貴楼の話である。 新宿豊倉屋(今の新宿伊勢丹の一角)の遊女お倉 と、堀(山谷堀)の有名な芸者小万が、一人の男をめぐって争った。 男とは 亀次郎のことである。 お倉は小股の切れ上がったいい女で、谷中茶屋町(現 谷中6丁目)の身内で渡井丑五郎という鳶職の娘として生まれた。 上品で賢 いお倉は、誰が見ても遊女上りには見えなかった。 一方、堀の小万は、当時 の狂歌に、<詩は詩仙、書は米庵に、狂歌は及公(おれ)、芸者小万に、料理八 百善>とある堀のナンバーワンだった。(なお、大田南畝(蜀山人)の狂歌は、 「詩は五山」「詩は詩佛」「書は鵬斎」「役者は杜若」「傾(傾城の意か)はかの」 「芸者小勝」「芸者こかつ」などと、いろいろに書かれる。)

 明治6(1873)年、「富貴楼」を尾上(おのえ)町に移した時には、旅館も兼 ねた会席料理屋になっていて、「汽車で行く料理屋」として政府高官に大人気だ った。 その前年の明治5(1872)年に、新橋-横浜間にわが国初の汽車を敷 設した大隈重信と井上馨の二人は、特別な思いで汽車に乗り、横浜「富貴楼」 に通ったのだろう。 明治の元勲たち、中でも頑固で有名な大久保利通も、お 倉には一目おいていたという。 政財界人、高級官僚などのサロンとなった「富 貴楼」の女将お倉は、明治の政治を動かした女といわれ、明治の女傑に数えら れている。

お倉、大隈重信と伊藤博文の関係を修復2017/07/13 07:28

 横浜「富貴楼」お倉について、私が興味を持ったのは、福沢にもかかわる明 治14年の政変に関する話だった。 「富貴楼」お倉も知らなければ、この話 も知らなかった。 鳥居民著『横浜富貴楼お倉―明治の政治を動かした女』(草 思社・1997年)に「大隈重信と伊藤博文の仲介役」という小見出しの部分があ るそうだ。 明治14(1881)年1月、伊藤博文、井上馨、大隈重信は熱海会 談で、国会、憲法、殖産興業政策まで、協力し合うことを約束する。 お倉は 女中の一隊を連れて熱海に行き、会議の裏方を務めた。 しかし、国会開設を 巡って、見解を異にし、北海道の官有物払下げ問題で、薩摩閥と大隈とのきし みが激しくなる。 ついに10月、大隈が明治天皇の東北巡幸に随行中、薩長 の大幹部からなる内閣閣員は、大隈の追放を決める。 それを恐らく伊藤博文 から聞いたお倉は、横浜正金銀行頭取の中村道太に知らせる。 中村は、これ を大隈に知らせようと、ただちに横浜を出発する。 お倉はまた、大隈を支援 する横浜第一の生糸商原善三郎にも知らせ、原も大隈のいた福島へ横浜を発つ。

 ちょうどその時福島には、福沢諭吉の書生で秘書だった伊東茂右衛門が、福 沢の手紙を大隈に届けに来ていた(明治14年10月1日付、大隈重信宛書簡番 号610『福澤諭吉書簡集』第3巻139頁にある。新著『時事小言』を届け、世 上の民権論、新聞紙発行問題などに触れている)。 深夜午前1時近く、中村 道太が大隈の部屋に入り、出て行った後、慌ただしく原善三郎が入って来る。  まだ事情を知らない伊東は、横浜でのドル高騰の話かと思っていたが、翌朝福 島を発ち福沢邸に戻って、初めて事態を知り、びっくりした。 福沢は一時「自 分も大隈も逮捕され、投獄される」と覚悟したようだが、お倉が大隈に伝えた のは、より正確な情報で、「辞職を強要され、免官になる」というものであった と、鳥居民は推測している。

 井筒月翁『維新侠艶録』(中公文庫・1988年、原著は萬里書房・1928(昭和 3)年)に、お倉が大隈重信と伊藤博文の関係修復のお膳立てをした話がある。  明治20(1887)年9月、井上馨が外務大臣をやめ、総理の伊藤博文が外相を 兼務したが、どうも評判がよくない。 国会開設も近づき、何とかして民心を 転換しなければならない。 そこで伊藤は民間の有力者を政府に入れようと考 えた。 当時の民間の有力者といえば、大隈重信を措いてほかにない。 しか し、明治14年の政変以来、二人は感情の衝突をしており、会見するのも困難 だった。 ある日、伊藤は箱根の福住で遊び、お倉も芸者を伴って座にあった。  お倉が伊藤に囁いた、「大隈さんとお会いになりませんか」「お前の力で会える か」。 お倉の奔走で、翌明治21(1888)年正月10日の夜、富貴楼で伊藤と 大隈は会見、両者の話し合いによって、2月1日大隈は外務大臣となった。

松本良順の洋式病院「早稲田蘭疇医院」2017/07/14 07:30

 安井弘さんの『早稲田わが町』に、明治3(1870)年10月、一面田圃が広 がる早稲田に、二階建ての本格的な洋式病院「早稲田蘭疇(らんちゅう)医院」 が建てられたことが、詳しく書かれている。 私立の洋式病院開業は、これが わが国で初めて、建てたのは明治医学界の先駆者の一人、松本良順で、「蘭疇」 は良順の号だった。 松本良順は天保3(1832)年、順天堂の開祖佐藤泰然の 次男として生れ、のちに幕府奥医師松本良甫の養子となり、安政4(1857)年 幕命により長崎に留学、オランダの軍医ポンペに西洋医術を学んだ。 ポンペ の設計で建てられたわが国初の公立病院である養生所(病院)と医学校で、ポ ンペが養生所長、良順が医学所頭取を務め、ポンペを助けて教育と臨床にあた った。 文久2(1862)年江戸に帰り、幕府医学所が「西洋医学校」と改称し て、緒方洪庵が頭取を務めていた、副頭取となり、翌年洪庵が急死すると、32 歳で頭取となる。 この西洋医学校は、のちに大学東校と名を改め、明治10 (1877)年に至って東京帝国大学医学部となる。 良順は幕府に長崎の養生所 にならい、江戸に洋式病院の建設を申請したが、その計画は戊辰戦争に遭遇し て、消滅してしまう。

 良順は維新の戦いで弟子の医師たち9名で幕軍方に投じ、会津で戦傷者の治 療に当たり、鶴岡まで行く。 仙台の榎本武揚からの書状で、松島湾に碇泊中 の「開陽丸」に行き会見、蝦夷への同行を勧められるが、土方歳三が「先生は 前途有為なお方です。戦乱に巻き込まれ、命を失うようなことがあってはなり ません。江戸にお帰り下さい。私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり 奮戦し国のために殉ずるのが定め。」と説いた。 良順は土方の言葉に従い、オ ランダの武器商人スネルのホルカン号で横浜へ密航し、横浜のスネルの商館に 1か月ほど身を隠していたが、官軍に捕らわれ取り調べの後、本郷加賀屋敷に 幽閉の身となる。

 1年後の明治2(1869)年に釈放され、自由の身となった。 長男銈太郎は 21歳になり、科学を学び仕官して、早稲田に住んでいた。 横浜居留地に幕府 御用商として医療器具や薬を納めていたオランダの商人ヒストルと、スウェー デン人シーベルネを訪ね、今後医術で生計を立てるつもりと話すと、無事を喜 び開業の資金として千円ずつの献金をしてくれた。 紀州公から同額の献金、 追って尾張公からも同様の支援を受け、静寂な早稲田の自然環境に魅せられた 良順は、穴八幡宮の向かいに広大な土地を入手、洋式病院の建設の夢を実現す ることになる。  『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』(鈴木要吾著、昭和8(1933)年東京醫事新誌 局刊)にある松本棟一郎(子息)の談話によると、北寄りの病院本館は4、50 ベッドの病室、南寄りの入院室には30人ばかりを収容でき、松本内塾といっ て3、40名の塾生がいた。 別に早稲田に20人ばかり収容できる外塾があり、 別に蘭疇舎という英学校があって、ドイツ人のオットヒッセルが英語とドイツ 語を教えていた。 この蘭疇舎出身者には、福島安正大将、松原新之丞水産講 習所長、田代正長崎医学校長などがいた。

 早稲田蘭疇医院には、診療を請い、入院する者が増え、蘭疇舎にも新知識を 求める青年たちが上京し、順風に乗って進んでゆく。 入院患者には洋食を与 えたり、牛乳を飲ませたりした。(馬場註 : 早稲田界隈にいくつか牧舎があり、 「高田牧舎」の名の由来にもなっているのは、ここから来ているのではないだ ろうか。) ある時、山県有朋が良順を訪ねて来て、廃藩置県の内示が出ている ことを告げ、軍医制度を発足するので兵部省に出仕するよう要請する。 半蔵 門の前方に広がる広大な敷地に、日本陸軍軍医部を新設し、軍医頭に任命され た。 明治6(1873)年に初代陸軍軍医総監になると、名を良順から「順」に 改め、早稲田の松本邸から軍医部まで馬で通った。 兵部省に軍医寮が設けら れてからの良は多忙を極め、蘭疇医院の院長として勤務することが難しくなり、 山県公に相談、山県公は早稲田蘭疇医院を軍医寮が借り受け、仮軍事病院とす ることを提案、順も同意して軍医の職務に専念することになった。

 『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』に、こんな記事があるそうだ。 松本良順が 陸軍軍医総監になって、蘭疇医院の建物は山瀬正巳に譲渡された。 山瀬正巳 は清水徳川家の臣で、この建物を利用して売薬合資会社資生堂を設立した。 こ れは越中富山市の俵屋が良順に図ったもの。 幕末医学所生であった福原有信 は医者に見切りをつけて大学東校調薬部に勤めていたが、商才を働かして良順 の勢力と三井組の資力後援を得て、銀座に資生堂の支店を設けた、これが現在 の銀座資生堂の起源である、と。 資生堂は早稲田蘭疇医院の建物で産声をあ げたことになる。

「大磯の恩人」松本順2017/07/15 07:13

 松本良順については、昔「等々力短信」(第715号1995(平成7)年8月15 日)に「大磯の恩人」という一文を書いていた。 以下に引く。

 『文藝春秋臨時増刊 短篇小説傑作選 戦後50年の作家たち』の冒頭は、 井上靖の「グウドル氏の手套(てぶくろ)」である。 ある秋、井上靖は初めて 長崎を訪れ、明治時代の二人の物故者の遺物(かたみ)を偶然目にする。 一 つは丸山の料亭Kにあった松本順の筆蹟になる横額で、もう一つは坂本町の外 人墓地のE・グウドル氏の墓だった。 二人は、井上靖の作品にしばしば登場 する曾祖父の妾、かの女(郷里の伊豆の家で井上少年を育てた人)の記憶の中 に美しく生きていた。 松本順は初代の軍医総監を務めた人物だが、井上の曾 祖父潔の先生だったから、おかの婆さんは、この世で最も尊敬すべき人物とし て、幼い井上の心に「松本順」の名を吹き込んでいたのであった。

 「松本順」どこかで聞いたことがあった。 幼名を松本良順、嘉永3年幕命 で長崎に留学、といえば、福沢諭吉との関係だろうか。 年齢は福沢より二つ 上だが、長崎留学は福沢より4年ほど早い。 福沢諭吉全集の索引から、荘田 平五郎宛書簡に松本の名前が一度出て来るのと、福沢の「大磯の恩人」(全集2 0巻383頁)という文章が見つかった。 福沢が箱根湯元の福住旅館にしば しば保養の小旅行をしていたことは知っていたが、大磯の松仙閣にも避寒に行 っていたようで、明治26年2月の滞在中に、思い付いたままを記して松仙閣 の主人に渡したのが、この「大磯の恩人」だという。

 大磯が夏は海水浴場、冬は気候が温暖なため避寒地として知られ、今日の繁 栄を享受できるようになったのは、大磯の海水空気が健康のために有益である と首唱した医学先生松本順翁のおかげである。 しかし大磯の人々が、大磯の 自然を利用することを思い付いた人のことを忘れているようなのは残念だ。  地元有志の人々が何とか一案を考え、今は引退した松本順翁の余生を安楽に 悠々自適に消光できるように工夫することが肝要ではないか。 翁と面識はあ るものの深い交際はないが、聞くところによると、磊落な性格で金銭のことに はおよそ淡泊だそうだから、有志の人が心配しても、面倒だと謝絶されるかも しれない。 だが「恩を忘れざるは人生徳義上の当然なり」「亦是大磯地方の栄 誉を全ふして世間の侮を防ぐの道なるべし」という、福沢らしい文章である。

昭和4年、松本順の頌徳碑が、大磯の海岸に町民の醵金で建てられた。 題 字は犬養毅、碑文は鈴木梅四郎、共に福沢門下生である、と福沢全集の註にあ る。

おかの婆さんの記憶の中に「美しい在り方」で生きていた人物の一つの傍証 である。(「等々力短信」第715号・終)

 福沢の提案が、大磯の人々に受け入れられたことが、安井弘さんの『早稲田 わが町』にあった。 松本順の晩年、大磯町の多数の有志から、土地と家屋が 贈られて、そこに住んだ。 だが、いつの間にか、その屋敷を手放して山の家 に引き込んでしまう。 そこで日蓮宗の経典に「楽痴」の文字を見つけ、号を 「蘭疇」から「楽痴」と改め、山の家を「楽痴庵」と名づけた。 心臓を病む 松本順を、軍医総監を辞して順天堂病院の医院長になっていた甥の佐藤進が、 しばしば東京から大磯まで診療に来ていた。 麻布我善坊に生まれ、江戸っ子 気質をつらぬき通した松本順は、甥の進に看取られて明治40(1907)年3月 12日、大磯の楽痴庵で起伏に富んだ75年の生涯を閉じた。