≪40代ひとり暮らしは 日本を滅ぼす≫2017/08/01 07:10

 「社会問題解決型AIひろし」は、あるデータが他の沢山のデータに影響を 及ぼす、つまり社会への影響力があり、日本の未来を動かす10のカギを見つ け出した。 影響力の大きい順に、第1位・核家族世帯数、第2位・40代ひと り暮らし率、第3位・病院数、第4位・女子中学生 肥満指数、第5位・平均 婚姻年齢、第6位・乗用車保有数、第7位・“できちゃった婚”率、第8位・ 平均寿命、第9位・老衰死亡者数、第10位・婚姻件数。 第2位や第4位は、 人間には到底考えられない意外なものである。

 「AIひろし」が読み解いた五つの提言に戻る。 その第二は《少子化を食い 止めるには 結婚よりもクルマを買え》。 合計特殊出生率は、製造業付加価値 額、乗用車保有数に連動し、反対に“できちゃった婚”率、平均婚姻年齢には 連動しない。 婚姻件数が増加しても、出生率はダウンする。 コメンテータ ーは、クルマは日本の基幹産業で、経済全般に影響を及ぼすと読み解く。 「AI ひろし」は過去のデータによっているから、次の基幹産業は示さない。 マツ コ・デラックスは、プリミティブなもの、農業では、と言う。 日本の食糧自 給率が39%と低いこと、秋田県大潟村の大規模農業などに触れた。

提言の第三は≪ラブホテルが多いと 女性が活躍する≫。 最近のラブホテル は、外人観光客にも利用され、2020年のオリンピックに向けて国も活用を考え ているそうだ。 「かしま(貸間)産業」を研究しているキム・イッキョン(金 益見)神戸学院大教授は、女性一人の休息や女子会プラン等の利用があるとい う。 社会学者のリチャード・フロリダは、クリエーティブで自由な雰囲気の 町や階級が、経済成長の原動力になると指摘しているという。

提言の第四は≪男の人生のカギは 女子中学生の“ぽっちゃり度”≫。 女子 中学生の肥満指数に連動しているのは、30代前半の未婚率、40代の離婚率で、 さっぱり意味がわからない。 坂田教授は、女性が(消費その他)何事でもリ ーダーシップを取っているということではないか、と。

そして一番の問題となる、提言の第五は≪40代ひとり暮らしは 日本を滅ぼ す≫。 「40代ひとり暮らし」(249万人・全人口の2%)が増えると、自殺 者数や生活保護費が増え、出生率が減る。 「40代ひとり暮らし」が2倍にな ると、社会のさまざまなデータが変化する、空き家数は27%増、餓死者数(栄 養失調を含む)は49%増、合計特殊出生率は12%減。 下町と再開発が混在 した荒川区役所の担当者たちは、「40代ひとり暮らし」を、盲点で、行政と一 番接点がないという。 老人クラブの会員数は減少し、救急出動の件数は5年 で700件も増えた。 坂田教授は、大都市の現象、公的サポートに頼る地区。  柴田准教授は、地域のネットワークが途切れている、親の孤独の問題にも共通 の要素を考える必要がある、「社会のカナリア」かも。 大越記者主幹は、ここ に響くことは全体に響く「社会のツボ」なのか、と。

≪40代ひとり暮らしは 日本を滅ぼす≫という「孤立社会」のキーワードが 見えて来た。 これに対策を取れば、少子化、財政悪化、貧困を、一気に解決 できるかもしれない。 マツコは、40代ひとり暮らしは、非正規雇用の先頭の 世代だと指摘した。 「AIひろし」は、解決策として、「家賃(民間賃貸家賃 (1坪当り))を下げれば、40代ひとり暮らしが激減する」と示した。 1坪当 り家賃を1000円下げれば、40代ひとり暮らし(249万人・全人口の2%)は およそ38万人減る。 スーパーでパート勤めの山田さん(42・男性)は月収 12万円、家賃4万5千円だ。 荒川区では、ひとり暮らし用の1Kか1LDK が増えている、ファミリー用より家賃を高く設定できるので、家主が儲かるか らだ。 マツコは、フランスで出生率が増加したが、補助金はそんなに多くな い、と。 坂田教授は、フランスの全世帯の21%が家賃補助を受けている、国 の姿勢、雰囲気の問題と。 結婚以外の選択肢として、シェアハウス、コレク ティブハウス(幅広い世代がゆるやかなコミュニティをつくりあげる共同の住 まい、第一号は荒川区にある)の話題も出た。

「社会問題解決型AI」についての全体的感想。 大越記者主幹、成長一点張 りのモデルを疑ってみたらどうか。 坂田教授、AIとお友達にならないと、解 決策が出て来ない。 柴田准教授、希望を感じる。 マツコ、AIは予測できな いものに対して、ヒントを与えてくれる存在。

再建された旧吉田茂邸を見学2017/08/02 06:57

 3月に鎌倉の鏑木清方記念美術館と居酒屋に行った仲間と、7月28日大磯へ 出かけた。 大磯在住の仲間の一人の案内で、第一の目的は今年3月再建され た旧吉田茂邸だった。 今回は家内もおまけで参加させてもらう。 涼しい内 にと朝9時に大磯駅集合、バスで城山(じょうざん)公園前へ。 旧吉田茂邸 は、明治17(1884)年に吉田茂の養父吉田健三が別荘として建てたもので、 吉田茂が昭和19(1944)年頃から、戦後の5期6年2か月の内閣総理大臣在 任中を経て、昭和42(1967)年に89歳で亡くなるまで過ごした邸宅だ。 没 後、西武鉄道が取得、大磯プリンスホテルの別館として利用していたが、平成 16(2004)年頃から地元を中心に保存の機運が高まり、県立大磯城山公園の拡 大地域として県が整備する計画を検討中、平成21(2009)年3月本邸が火災 で焼失してしまう。 その7月計画を再確認し、県が周辺を公園として整備、 大磯町が旧吉田茂邸を町有施設として再建することになった。

 旧吉田茂邸は、昭和22(1947)年に建てられた応接間棟、昭和30(1955) 年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館を中心に再建されて いる。 靴を脱いでスリッパになって上がると、檜の香りが満ち、座敷には畳 の匂いがして、清々しい。 吉田五十八が空間を広く見せるために柱をなるべ く見せない造りにし、新館2階「金の間」の広く取ったガラス窓からは、相模 湾や箱根の山々、この日は見えなかったが富士山が一望できる。 地元の船大 工が作ったという舟形の檜風呂(というよりバス)が素敵だ。 ローズルーム という大テーブルの食堂は、いかにも英国大使を務めた外交官らしく、壁面が 元は子羊だったという皮張りで、今は研修室となっている地階はワインセラー だったそうだ。 勲章などが並んでいる展示室で、吉田茂の業績を物語る短い ビデオが流れていた。 戦後まもなく冷戦の時代となり、昭和25(1950)年 の朝鮮戦争勃発後、アメリカのダレス特使が講和条約交渉で来日、日本の再軍 備を要求したのを、吉田首相が経済復興を優先して断固拒否した話が、印象深 かった(同年、警察予備隊、昭和27(1952)年保安隊創設)。 書斎や寝室に は、吉田の蔵書が並んでいる。 没後、大磯町の図書館に寄贈されたので火災 を免れ、ここに戻されたという。 『朝の机』『秩序ある進歩』『河流』『一つの 岐路』『わが日常』『ペンと剣』など、小泉信三の著書が沢山あった。

 昭和36(1961)年頃、中島健の設計で完成した日本庭園に出て、「七賢堂」 へ登る。 元々は伊藤博文が明治36(1903)年に大磯の自身の邸宅「滄浪閣」 に岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀って建て、その死後、 伊藤博文を加えて「五賢堂」となった。 昭和35(1960)年に吉田邸に移設 されて、昭和37(1962)年に吉田が西園寺公望を合祀し、吉田死後の昭和43 (1968)年佐藤栄作の名で吉田茂が合祀され「七賢堂」となったもので、正面 の扁額「七賢堂」は佐藤栄作の揮毫だそうだ。 さらに進むと、西湘バイパス を見下ろし、相模湾、富士山、伊豆半島、房総半島が一望できるところに、吉 田茂の銅像がある。 いかにも好々爺といった、穏やかな表情をしている。 昭 和58(1983)年の建立で、昭和26(1951)年の講和条約締結の地、サンフラ ンシスコと首都ワシントンの方角を見ているのだそうだ。

旧三井別邸地区と「めしや“大磯港”」2017/08/03 07:06

 県立大磯城山公園の旧吉田茂邸地区から、国道1号線を越えた山側が、旧三 井別邸地区である。 山を登って行く、緑が深くて涼しい、ユリが咲いている。 入口付近は海抜14Mだが、展望台は海抜42Mである。 この展望台の所に、 旧三井財閥当主の別荘、城山荘本館が建っていた。 大磯在住の仲間の記憶で は、素晴らしい建物だったそうで、非常に価値のある木造建築だったが、解体 され、他の建物とともに各地に四散してしまったという。 その北側に三井別 荘時代の北蔵が現存し、ギャラリーとして開放されている。 われわれは行か なかったが、展望台の裏手に大磯町郷土資料館(本館)があり、「湘南の丘陵と 海」をテーマに大磯とその周辺の歴史、文化、風土に関する資料が展示されて いる(旧吉田茂邸は大磯町郷土資料館の別館だ)。

 三井別荘時代この地にあった国宝茶室「如庵」(織田有楽斎建立)を模した茶 室「城山庵(じょうざんあん)」が、西門を入った所に建てられて、使われてい る。 茶室「如庵」は、江戸時代初期に織田有楽斎が京都に建立したもの、明 治末期に三井総領家(北家)の手に渡り、10代当主・三井高棟が東京の今井町 邸に移築、昭和11(1936)年国宝指定を機にここ大磯の別荘・城山荘に移され て、幸いにも空襲を免れた。 だが昭和45(1970)年、城山荘とともに、「如 庵」は三井家の手を離れ、名古屋鉄道の所有となり、愛知県犬山市の名鉄犬山 ホテル・有楽苑内で月1回公開されている。 私も平成23(2011)年に犬山 へ鵜飼の旅に行った時、拝観した。 なお、平成17(2005)年に開館した日 本橋の三井記念美術館に「如庵」が再現されている。

 暑い中を歩くのを避け、城山公園前からバスで戻り、大磯小学校前で降りて、 愛宕神社の切通しを抜けた角の和菓子の老舗・新杵(しんきね)へ行った。 西 行まんじゅう、豆大福、残り三つの葛桜を買う。 母が若い時に平塚にいた関 係で、この店が好きで、兄が箱根などへ出かけると土産にしていた。 国道1 号線の先に、真壁豆腐店、大磯・井上蒲鉾店の(新島襄が亡くなった旅館百足 屋跡、徳富蘇峰筆の碑も)あるのを確認し、「大磯照ヶ崎海水浴場の碑」を曲が って、さらに海岸へ降りると、町営照ヶ崎プールの横に、7月16日に書いた「松 本順の頌徳碑」のオベリスクが見えた。

 われわれの目的地は、左手に広がる大磯漁港の、漁協直営「めしや“大磯港”」 である。 11時開店、11時30分ぐらいだったかと思うが、すでに家族連れな どで満杯で、本日の「出来ますもの」を選びながら、少し待った。 私はイサ キの塩焼き定食、家内はサワラの煮付け定食、それぞれにダツ刺身、小イワシ 唐揚げ、ワカメの味噌汁がつく。 生シラスも頼む。 まことに結構な味で、 お安い、沢山の人が車で駆け付けて来る訳がよくわかった。 大磯駅に戻る途 中の魚屋さんで、仲間はアジの酢〆や干物などを求めていた。

暑い日だったが、さすが大磯、海の風と豊かな緑、降りそそぐ蝉の声や飛ぶ 燕や蜻蛉の姿に、何度か涼しさを感じた。 今回も素敵な大磯散策となった。  綿密な計画を立ててくれた大磯在住の友人に感謝、感謝。

天満敦子チャリティーコンサート(浜離宮朝日ホール)2017/08/04 06:58

 大磯へ出かけた翌日、天満敦子さんのヴァイオリンを聴きに浜離宮朝日ホー ルへ行った。 5月、広尾のオマーン国大使館で聴いた時に開催を知ったチャ リティーコンサートである。 主催のJHP・学校をつくる会(代表は『3年B 組金八先生』、大河ドラマ『徳川家康』『翔ぶが如く』などの脚本家・小山内美 江子さん(87))は、カンボジアやネパールに学校を建設したり(340棟を超え るという)、教師の育成や音楽、美術、衛生などの教育支援活動を行っている。  大学生など若い世代をボランティアとしてカンボジアへ派遣すると、「地球市民 として共に生きる」実感を宝物にして帰って来るそうだ。 天満敦子さんのチ ャリティーコンサートは、今回が13回目になるという。

 天満敦子さんのヴァイオリン演奏、前半はバッハ「アダージョ」「G線上のア リア」、フォーレ「夢のあとに」とつづく。 正直に言えば、この辺でいつもの 昼寝の時間なのと、大磯散歩の疲れが出て、時々「夢のなかに」なる。 ドヴ ォルザーク「ユーモレスク」、マスネ「タイスの瞑想曲」、イギリス民謡「グリ ーンスリーヴズ」(和田薫編曲)、アイルランド民謡「ロンドンデリーの歌」(和 田薫編曲)、そしてお馴染みのポルムベスク「望郷のバラード」。 浜離宮朝日 ホールは初めてだったが、素敵なホールで、音響も素晴らしい。

 天満敦子さんはここのショート・トークでも、今年は「望郷のバラード」25 年、ストラディヴァリウスと結婚してから30年と語った。 後半は、和田薫 「独奏ヴァイオリンのための譚歌より<琥珀・紅蓮>」、ミュート(弱音器)を つけて熊本県民謡「五木の子守歌」、岡山県民謡「中国地方の子守唄」(和田薫 編曲)、ホルスト「ジュピター」、時々楽し気な間を挟んでカンボジア民謡「ク メールの民」。 アンコールがまたまた素晴しかった。 中田喜直「夏の思い出」、 菅野よう子「花は咲く」、森繁久彌「知床旅情」、そして会員を追悼して、いず みたく「見上げてごらん夜の星を」。 「夏の思い出」や、ピチカートも織り交 ぜた「花は咲く」には、今回もまた涙がこぼれそうになった。

 コンサート終了後、築地場外市場を覗く。 ほとんどの店は閉まっている時 間だったが、斎藤水産で買ったマグロと湯引きのハモで、大満足の夕食となっ た。

築地場外市場の火事2017/08/05 07:12

 3日夕方から、築地場外市場が火事になった。 5日前の29日に行ったばか りだったので、びっくりした。 たまたま日本テレビのnews everyをつけた ら、藤井貴彦アナが画面を見ながら実況中継をしている。 29日は浜離宮朝日 ホールを出て、新大橋通り(もんぜき通り)に回り込み、新喜楽の前の信号を 渡って、火事になったアーケードを通って、いったん晴海通りの交差点まで行 った。 3時頃だったか、ほとんどの店は閉まっていたが、海鮮丼の店がわず かに営業していた。 ラーメン店「井上」は閉まっていたと思う。 晴海通り の勝鬨橋寄りに、新しい場外市場のビルが出来たと聞いていたので、見に行っ たが、閉まっていたので、元の場外市場の築地横丁に戻った。 数軒の店がま だ開いていた。 斎藤水産でマグロと湯引きのハモを買い、築地横丁を晴海通 りへ出たので、テレビのニユースで一番に燃えていた料理道具の「大野屋」や、 角の庖丁の「有次」の前を通ったのだった。

 日本テレビは現場に近いこともあって、新大橋通りの反対側のカメラと、ヘ リコプターからの映像を流していた。 発生は4時50分頃、直後の投稿動画 も織り交ぜる。 築地場外市場にお寺(圓正寺、称揚寺)があることは知って いたが、「大野屋」の裏手にお墓があることを、ヘリコプターからの映像で初め て知った。 消防士が墓場から水をかけている。 もともとこの一帯は、お寺 の境内だったのだろう。 消防自動車などは沢山(63台)出動しているが、ほ とんどが新大橋通りに並び、細い道には入れない。 はしご車からの放水も始 まった。

 炎や黒い煙が放水によって、いったんは白い煙になるのだが、それがすぐに 鎮火ということにはならない。 また、炎や黒い煙が出始める。 岡目八目、 テレビ画面のヘリコプター映像で見ていると、気づくことがある。 消防の指 令は、ヘリコプターかドローンの映像や、近所の高いビルから現場を見ながら 指揮をしたらどうなのだろう。 「大野屋」に隣接して、トタン屋根が続いて おり、その上にホースを持った消防士の姿が見える。 そのトタン屋根の周り から、煙が出始めている。 トタン屋根が抜ければ、危険な状態になる。 中 は恐らく燃えているのだろう。 思わず、「逃げろ」と声を出す。 新大橋通り 側はアーケードで看板も大きく、建物に直接水をかけられないし、シャッター が閉まっていて、開けられないのだろう。 早く延焼を食い止めるには、破壊 消防しかないと思った。

 結局、完全な鎮火は午前8時過ぎと、約15時間以上がかかり、延焼により7 棟、935平米が焼けたそうだ。 幸い怪我人は出なかったというから、消防士 も無事だったのだろう。