お祖母ちゃんを捨てた沼津大空襲2017/08/19 07:15

 ジェーン・スーさんのお父さんは、この3月に79歳になったというから、 私の三つ上だ。 私が4歳で品川の中延で経験した、東京大空襲の時は、沼津 に疎開していたという。 三つ上と五つ上の兄は学童疎開(小学校3年生から 6年生が対象)しており、三男の父と曽祖母を連れ、祖父と祖母は親戚を頼り、 慣れ親しんだ本郷から沼津へ行った。 父は沼津で小学生になった。 沼津の 借家に、ようやく荷物が届いて、荷ほどきもしない内に、沼津でも空襲が始ま った。 昭和20年7月17日未明の沼津大空襲、軍需工場が多くあったために 標的にされたらしい。

 「沼津では、焼夷弾がバラバラ落ちてくるところを逃げたよ。で、逃げる途 中でおばあちゃんを捨てたの」  一緒に逃げた知らない中学生に焼夷弾が当たっちゃって、腕が取れちゃった。  うちは家族で、歩けないおばあちゃんをリアカーに乗せて、親父がそれを引き ながら逃げてたの。 夏だったから、おばあちゃんに白い布団を被せてね。 そ うしたら、それが目立って飛行機の上から見えるっていうんだよ、一緒に逃げ てた連中のなかにイチャモンをつけるのがいたの。 そういう時は、ちょっと ばかり図体がでかくて、声の大きい奴が偉そうなことを言い出すんだよ、必ず。  馬も逃げてきたよ。 どっかの厩舎が被弾したんだな。 狂ったように馬が走 ってきて、俺たちを追い越していった。 にわかには信じがたいが、混乱のな か初対面の男に凄まれ、父たちはリアカーごと祖母を海沿いの松林に捨てた。  そこはまだ火の手が迫っていない場所だったというが、一緒に逃げる理由など まるでない初対面の連中に指図され、大切な親を道に捨てる心境が、ジェーン・ スーさんにはどうしても理解できなかった。 それが今生の別れになるかもし れないのに? と何度も尋ねたが、明確な答えは返ってこなかった。  「プレッシャーに負けたんだな、親父は」

 それから父たちは夢中で逃げた。 逃げて逃げて、朝がきた。 祖母を探し にリアカーを捨てた松林に急いで戻る。 しかし、いない。 いくら探しても リアカーが見つからない。  「誰か持ってっちゃったのかしら? なんて親父とおふくろは言ってたねぇ」  諦めかけたところでリアカーは見つかった。 思っていたよりずっと家から 近いところにあった。 おばあちゃんはリアカーのなかで捨てられた時と同じ ようにじっと寝ていたという。  「捨てろって言われてから結構粘ったと思ってたけど、俺たち随分と早くお ばあちゃんを捨てちゃっていたんだよな」  笑えない話で、また父が笑う。

 奇跡の再会を果たし、家族はリアカーを引きながら家路を急いだ。 家はま るごと、ぜんぶがぜんぶ焼けていた。 庭に植えていた茄子までこんがり焼け ていた。 「でね、せっかくだからね、家族で食べたの。焼き茄子を」

 沼津から東京へ戻ったら、本郷の家も焼けてなくなっていた。  ジェーン・スーさんが「終戦」と言うと、お父さんは「敗戦」と言い直し、 文脈に関係なく言葉の終わりを「戦争はダメ」とか「戦争は悲惨」で締めると いう。