お倉、大隈重信と伊藤博文の関係を修復2017/07/13 07:28

 横浜「富貴楼」お倉について、私が興味を持ったのは、福沢にもかかわる明 治14年の政変に関する話だった。 「富貴楼」お倉も知らなければ、この話 も知らなかった。 鳥居民著『横浜富貴楼お倉―明治の政治を動かした女』(草 思社・1997年)に「大隈重信と伊藤博文の仲介役」という小見出しの部分があ るそうだ。 明治14(1881)年1月、伊藤博文、井上馨、大隈重信は熱海会 談で、国会、憲法、殖産興業政策まで、協力し合うことを約束する。 お倉は 女中の一隊を連れて熱海に行き、会議の裏方を務めた。 しかし、国会開設を 巡って、見解を異にし、北海道の官有物払下げ問題で、薩摩閥と大隈とのきし みが激しくなる。 ついに10月、大隈が明治天皇の東北巡幸に随行中、薩長 の大幹部からなる内閣閣員は、大隈の追放を決める。 それを恐らく伊藤博文 から聞いたお倉は、横浜正金銀行頭取の中村道太に知らせる。 中村は、これ を大隈に知らせようと、ただちに横浜を出発する。 お倉はまた、大隈を支援 する横浜第一の生糸商原善三郎にも知らせ、原も大隈のいた福島へ横浜を発つ。

 ちょうどその時福島には、福沢諭吉の書生で秘書だった伊東茂右衛門が、福 沢の手紙を大隈に届けに来ていた(明治14年10月1日付、大隈重信宛書簡番 号610『福澤諭吉書簡集』第3巻139頁にある。新著『時事小言』を届け、世 上の民権論、新聞紙発行問題などに触れている)。 深夜午前1時近く、中村 道太が大隈の部屋に入り、出て行った後、慌ただしく原善三郎が入って来る。  まだ事情を知らない伊東は、横浜でのドル高騰の話かと思っていたが、翌朝福 島を発ち福沢邸に戻って、初めて事態を知り、びっくりした。 福沢は一時「自 分も大隈も逮捕され、投獄される」と覚悟したようだが、お倉が大隈に伝えた のは、より正確な情報で、「辞職を強要され、免官になる」というものであった と、鳥居民は推測している。

 井筒月翁『維新侠艶録』(中公文庫・1988年、原著は萬里書房・1928(昭和 3)年)に、お倉が大隈重信と伊藤博文の関係修復のお膳立てをした話がある。  明治20(1887)年9月、井上馨が外務大臣をやめ、総理の伊藤博文が外相を 兼務したが、どうも評判がよくない。 国会開設も近づき、何とかして民心を 転換しなければならない。 そこで伊藤は民間の有力者を政府に入れようと考 えた。 当時の民間の有力者といえば、大隈重信を措いてほかにない。 しか し、明治14年の政変以来、二人は感情の衝突をしており、会見するのも困難 だった。 ある日、伊藤は箱根の福住で遊び、お倉も芸者を伴って座にあった。  お倉が伊藤に囁いた、「大隈さんとお会いになりませんか」「お前の力で会える か」。 お倉の奔走で、翌明治21(1888)年正月10日の夜、富貴楼で伊藤と 大隈は会見、両者の話し合いによって、2月1日大隈は外務大臣となった。

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