大磯の「松本順の頌徳碑」と妙大寺のお墓2017/07/16 06:46

 大磯へは2005(平成17)年7月29日に行き、昨日の「大磯の恩人」松本順 に出てきた「松本順の頌徳碑」を見て、たまたま日蓮宗妙大寺で松本順のお墓 までお参りするということがあった。 その湘南への「小さな旅」は、第一の 目的地が平塚市美術館の三岸節子展だった。 日本橋三越の生誕100年記念展 が平塚へ巡回することを知り、以前に行って気に入っていた平塚市美術館まで 出かけたのだった。 三岸節子の、画業の全容を概観することができた。 63 歳で渡仏して、あちらに居を構えてからの、とくにヴェネツィアの小運河、赤 い屋根に石の壁の建物などの作品に素晴しいものがあった。 ただ、湘南の陽 光の中で見るせいなのか、三岸の絵には暗い面があるのも知ったのだった。

 平塚に行く前に大磯在住の同級生山崎君に、どこか昼飯によいところを教え て、と話をした。 いくつか候補を挙げてくれた中で、ちょうど土用の丑の日 の翌日でもあり、鰻の老舗として名前は聞いていた大磯の「国よし」に決め、 予約をしてもらって、ご一緒することにした。 さすが文政年間創業、十七代 目とかいう「国よし」、最近あまりお目にかからない、とろけるような蒲焼が出 た。

「松本順の頌徳碑」は、山崎君が「国よし」で訊いてくれ、旧東海道の国道 一号線に面した「国よし」から、さざれ石のバス停の信号を左折して海岸へ出 た所にあることがわかった。 歩道橋を渡ったプールの横に、大きなオベリス クの碑があった。 「松本先生 頌徳碑」犬養毅の書だった。 その後、松本順の墓のある日蓮宗妙大寺に行った。 まさか、お墓までお参 りするとは、思ってもいなかった。

 さらに島崎藤村が昭和16年に疎開して、2年後に亡くなった家「靜の草屋」 に行った。 ここにいた同年代のボランティアのおじさんがいい人で、当初大 磯の老舗菓子屋「新杵」の家作だったというこの建物の、茶室風の書斎その他 の造作や庭の木について、いろいろと説明してくれた。 藤村は白い花が好き で、名が春樹だから、春の木、椿がこの庭に多いとか。 その日、山崎君のおかげで、充実した大磯散歩が出来たのであった。

「冷麦」と「合歓の花」の句会2017/07/17 06:44

 13日は『夏潮』渋谷句会、暑い日だった。 ヒカリエの前に出ると、ばか高 いビルが二つ工事中で、一つはカーテンウォールを張り始め、もう一つは巨大 なクレーンが重そうな建材を吊り上げている。 先日は古い橋脚が落下したが 幸い怪我人は出なかったとか、思わず吊り上げられた鉄材か何かを見上げて、 その行方を追ってしまう。

 兼題は「冷麦」と「合歓の花」で、私は次の七句を出した。

お使ひの小僧つるつる冷し麦

冷麦や老番頭の箸裁き

冷麦や老いた二人の昼早し

高原のホテルに着けば合歓さかり

合歓咲いてもやもやもやに包まれる

花合歓の葉と眠れよと子守唄

漆黒の闇にほのかや合歓の花

 私が選句したのは、次の七句。

冷麦を啜るに破調なかりけり       祐之

営業は上々冷麦注文す          和子

冷麦や氷ごろごろ落とし込む       裕子

井戸水で冷やす冷麦母の里        真智子

シスターの静かな会釈合歓の花      真智子

薄紅に暮れゆく空や合歓の花       真智子

合歓咲くや互ひの夢を語り合ふ      淳子

 私の結果は、<冷麦や老いた二人の昼早し>を真智子さんとさえさん、 <花合歓の葉と眠れよと子守唄>を明雀さんが採ってくれて、互選3票、 主宰選ゼロの、鳴かず飛ばず、トホホ ギスであった。

いわきFCの「大番狂わせ」2017/07/18 07:07

 サッカーは、テレビで日本代表の試合を見るぐらいで、ほとんど関心がない。  J1で今、どんなチームが優勝争いをしているのかも、わからない。 10日の NHKニュースウォッチ9のスポーツで、「ジャイアントキリング」という言葉 を知った。 「大番狂わせ」という意味である。 6月21日、札幌厚別公園競 技場の天皇杯2回戦で、J1のコンサドーレ札幌を、アマチュアのチーム、ラ ンクでいうと格下も格下、7部相当の福島県社会人1部リーグの「いわきFC」 が破った。 2-2で延長戦となり、いわきFCが延長の30分に3点を加え、5 -2でコンサドーレ札幌を倒したのだ。

 なぜ、そんなことが可能になったのか。 ラグビー選手のように大きくて強 い肉体を持ち、速く走れるためのトレーニングを日頃から積んでいたからだと いう。 延長戦になっても、相対的に体力が落ちることがなかった。 「日本 のフィジカルスタンダードを変える」が理念の「いわきFC」は、トレーニン グ機器も、サッカーグラウンドも、ロッカールームも、J1のクラブよりも充 実しているかと思われる、素晴らしい練習施設を持っていた。 6月上旬、日 本初の商業施設併設型クラブハウス「いわきFCパーク」が完成した。 20億 円かけたと言ったか、どこかの会社がスポンサーなのだろうと思った。

 練習は火曜から土曜はフィジカルトレーニングが主体で、ボールを使うのは 30分ぐらい、金・土曜はサッカー主体の練習、日曜が試合、月曜はオフなのだ という。 社会人である選手たちは、平日午後、隣の物流センターで働いてい る。 NHKだから会社名はいわなかったが、マークから巨人軍のスポンサー にもなっている「アンダーアーマー」とわかった。

 ネットで調べると、「いわきFC」は、スポーツ関連事業を手がけるドーム(本 社・東京都江東区)が2015年12月に立ち上げた「いわきスポーツクラブ(SC)」 (本社・福島県いわき市)が運営している。 「いわきSC」は、ドーム社の 全面的なバックアップを受けている。 ドーム社は、(1)米スポーツ用品メー カー「アンダーアーマー」の日本での正規事業、(2)スポーツサプリメント「DNS (Dome Nutrition System)」の開発・製造・販売事業、(3)テーピング製品な どのスポーツメディカル事業、(4)フィジカルトレーニングのサポートを行う 事業――の4つを展開していて、それらのノウハウが「いわきFC」に生かさ れているのだそうだ。 ドーム社の専門トレーナーが練習につくほか、アスリ ートのために考えられた食事が朝昼晩3食ドーム社から提供され、DNSのサプ リメントも取り入れている。

 「いわきFC」は7月12日、天皇杯3回戦でJ1の清水エスパルスと対戦、 残念ながら0-2で惜敗した。

「獺祭」杜氏を廃しデータ管理の酒造り2017/07/19 07:20

 お酒は飲まないから、お酒のことはまったく知らない。 「獺祭(だっさい)」 というお酒があって、なかなか手に入らないという噂は聞いたことがあった。  「獺祭」という言葉は知っていた。 正岡子規の居宅が「獺祭書屋」と名づけ られていて、その忌日9月19日を「獺祭忌」と(「糸瓜忌」とも)いうからだ。  「獺祭」は、カワウソ(獺)がたくさん捕った魚を食べる前に並べておく習性 を、魚を祭るのにたとえていう言葉で、転じて、詩文を作るときに、多くの参 考書をひろげちらかすこともいう。 小人閑居日記を打つパソコンの周囲も、 言わば「獺祭」状態である。

 日曜の朝、たまたまテレビで、純米大吟醸「獺祭」の生みの親、旭酒造の桜 井博志会長を見た。 TBSの「がっちりマンデー」という経済番組(加藤浩次、 進藤晶子司会)、なぜ日曜の朝にマンデーなのかと思ったら、これを参考にして 月曜からがっちり働こうという趣旨のようである。 旭酒造は山口県の岩国市 周東町獺越という山奥にある。 「獺祭」の名は、この獺越から来ている。 川 べりにある「旭富士」を出す弱小の酒蔵だったのが、今や12階建ての近代的 ビルの中に工場がある。 売上高は108億円を超え、30年前の約40倍になっ たという。 最初に純米大吟醸「獺祭」を造ったとき、地元ではまったく不評 だった、今までの安く飲める酒をつくれ、といわれた。 東京にいる山口県人 に飲んでもらったら評判になり、そこから広まってゆく。

 私が面白いと思ったのは、酒造りの常識である杜氏(とうじ)を廃して、す べてデータで管理しての酒造りに挑戦していることだ。 木造の酒蔵でなく、 ビルの工場に、快適な環境をつくり、機械化できるところは機械を入れ、0.1 度単位での温度管理を可能にした。 それで夏でも酒造りが出来る。 製造途 中で検査をしてデータを取っているのは、専門の研究員などでなく、パートの おばさんだ。 酵母と麹菌がつくるお酒を、杜氏の勘に頼るのではなく、試行 錯誤の結果であるデータの最適値に合わせて、管理し、酒造りしている。

 山田錦を原料に、玄米を精米し23%まで磨いて、白い丸い芯の精白米(デン プン)にする。 それには7日間、都合約168時間かかる。 手間をかけ、コ ストを度外視し、手抜きをしない。 そうして出来たのが「磨き二割三分 獺 祭」。 「磨き三割九分」「50」や、最高級品「磨きその先へ」などもある。  磨きが多ければ、米粉も多く出るが、その副産物のライスミルクを使ったゼリ ーが帝国ホテルで販売されているらしい。

「獺祭」桜井博志会長の道のり2017/07/20 07:05

「獺祭」旭酒造の桜井博志会長について、ちょっと調べてみると、その道の りはけして平坦なものではなかった。 昭和25(1950)年、山口県周東町(現 岩国市)生れ。 松山商科大学(現松山大学)卒業後、西宮酒造(現日本盛) での修業を経て、昭和51(1976)年に旭酒造に入社するも、酒造りの方向性 や経営をめぐって父と対立して退社。 一時、石材卸業会社を設立し、年商2 億円まで成長させたが、父の急逝を受けて昭和59(1984)年に家業に戻った。  研究を重ねて純米大吟醸「獺祭」を開発、業界でも珍しい四季醸造や12階建 て本蔵ビル建設など、「うまい酒」造りの仕組み化を進めている。

杜氏制度を廃止し、データによる酒造りに挑戦したのも、最初は杜氏に逃げ られ、社員で酒造りをせざるを得なかったからだそうだ。 長らく低迷してい た旭酒造だったが、腕利きの杜氏の力もあり、平成2(1990)年前後には随分 持ち直していた。 そこで調子に乗って地ビールを造り、地ビールの飲めるレ ストランを開いた。 酒は冬に仕込むけれど、夏にもできる仕事をと考えて、 地ビールを造ったのだが、大失敗だった。 こんな会社にいては給料が貰えな いと、杜氏が逃げ出した。 実はそれ以前にも、杜氏とは亀裂があった。 美 味しい大吟醸を造りたいという桜井博志社長の思いと、普通のお酒を楽にたく さん造るほうがいいという杜氏の考えの溝を、なかなか埋められずにいたのだ。 でも杜氏制度をやめる決断をした時、若い人が付いてきてくれた。

社員総出で栽培した自社保有戸田の山田錦の稲穂を見ながら、「これで日本最 高の精米歩合の酒を造ろう」と思い立ったのが、純米大吟醸「獺祭」最初のき っかけだった。 原料米では、こんなこともあった。 酒の原料として最適な 山田錦ではなく、コシヒカリが混じっていたことが、DNA検査でわかった。 突 き返せば取引先との今までの信頼関係にヒビが入るし、4000俵という量だった から、酒の生産量にも響く。 それでも「本物」でありたい、旨い酒を造りた いという思いがあり、受け取ることはできなかった。 そして、原料米の生産 者とは、ITを使って栽培ノウハウを共有するなど、協力を進めてきているが、 農業は自然が相手、どうしても等外米ができる。 等外米を生産者だけに押し 付けるのではなく、旭酒造でも引き受け、等外米を使って意地でも美味しい酒 に仕上げようと挑戦、「獺祭 等外米」を造った。

精米後酒蔵に搬入された米は、最大144時間という長時間の摩擦熱により極 度に水分を失っている。 自然に水分を元の数値に戻してやるために、1か月 以上そのまま貯蔵して水分含有量を回復させる。 その後で、洗米するのだが、 洗米後の米の持つ水分を0.3%以下の精度でコントロールするために、通常は 大吟醸でだけ使われる技法で手洗いする。 機械で洗えば、人手は三分の一、 時間は六分の一で洗えるのだが、最新型の洗米機でもここまでセンシティブに 吸水率をコントロールできないからだ。

留仕込みの温度も5℃と酵母の生存限界ギリギリの温度からスタートさせる。  最高50日の醗酵期間中、もろみ管理上楽だから安全だからという理由で高い 温度を選択するという考え方はない。 そのため0.1℃の精度でもろみをコン トロールすることが必要だ。 コンピューターとそれに接続された温度コント ローラーで管理すれば楽なのだが、ここまで精緻なコントロールを要求すると、 そういった機械的操作では無理になる。 旭酒造では、年間を通じて5℃に設 定された発酵室で、自然の醗酵熱ともろみの櫂入れ作業の強弱のバランスで制 御している。 コストもかかり、原始的な方法だが、この精密な温度管理こそ 良い酒を造る為には必要なのだという。

 「酔うため、売るための酒ではなく、味わう酒を求めて」をキャッチフレー ズに、「華やかな上立ち香と、芳醇な味、濃密な含み香、全体を引き締める程よ い酸、これらが渾然一体となりバランスの良さを見せながらのどにすべりおち ていった後は爽やかな後口の切れを見せ、そこから長く続く余韻、そんなお酒 でありたいと常に努力しています」と言う。

2016年、長男の桜井一宏さんが39歳で社長に就任、桜井博志さんは会長に なった。