伝えたいことが伝わり、人を動かす文章2018/01/21 07:19

 そこで都倉武之さんの論文「福沢諭吉における執筆名義の一考察―時事新報 論説執筆者認定論への批判」の構成だが、「はじめに」の後、 一 福沢による文書の代作 1 『福翁自伝』における回想 2 福沢による文 書代作の例 二 福沢著作の執筆名義 三 『時事新報』社説に関する自意識 「おわりに」 となっている。

 今日は「一 福沢による文書の代作 1 『福翁自伝』における回想」をみ てみたい。 それぞれに引用されている福沢の文章が面白いのだけれど、それ は論文で読んでもらうことにする。

 『福翁自伝』に出てくる文書の代作の逸話は、適塾時代の「遊女の贋手紙」、 長崎から大坂への転学の途中、無銭宿泊のために中津の商人鉄屋惣兵衛の名を 騙った船宿への贋手紙、戊辰戦争で捕えられた榎本釜次郎(武揚)の老母の代 りに書いた助命嘆願書である。 これらの逸話は、福沢が贋手紙の内容のみな らず、その内容を記す文体、表記、書体、そして届け方などを総合的に偽ると いう多面的な考慮のもとに実行されたことを語っているのだ。 求める結果を 導き出す文章を作り上げるために、文章の書き手と読み手を意識し、その文章 がいかに読まれるかということに配慮を巡らせ、種々の工夫をし、実際に求め る結果を導いている。

 福沢の文章表現の柔軟性について、適塾時代に赤穂義士は義士か不義士か議 論した一節が引用されている。 そこからは、物事を両面から相対的に見据え た福沢の視座に加え、自分の説とは別次元の問題として、議論の技術が必要で あることを認識し、それを適塾時代に磨いたことが語られている。 明治5年 に東海道を歩いて、行き違う人々に様々な言葉遣いや態度で話しかけ、相手の 反応が変わる様子を観察する逸話がある。 福沢は『旧藩情』(明治10年)で 身分間の言葉の差異を詳細に考察しているように、語彙や語感の違いへの高い 関心を持ち、それを巧妙に使い分ける素地を持っていたといえよう。 年少者 向けの作文教科書『文字之教』(明治6年)の末尾には、文章の表現技術を磨 く必要を説く興味深い下りがある。

 福沢は議論の中身と外形は一体ではなく、難解なことも平易に、無意味なこ ともさも重要なこととして表現しうるといい、文章の技術(art)の重要性を自 覚していた。 中身を読者に伝えることに傾注し、「伝える」という実用の目的 に徹して、その目的を達成しうるならば外形の見栄えには拘泥しない姿勢を鮮 明にし、後進に推奨している。 さらにいえば、彼の書く文章は現在(書かれ た時点)の実用一辺倒であり、後世に向かって書かれたものではなかった。

 伝えたいことが伝わり、動かしたい人々が動けば、その文章は成功している と割り切れる人が福沢であり、福沢の文章は実際そのような意図に満ちている のである。 換言すれば、福沢の文章には必ず何らかの意図があり、意図と離 れて存在し得ないのである。 そうであるから、全ての言説を対等な存在とし て平等に並べて批評することは、福沢の思想を検討する場合不適切なアプロー チとなる。

 これまでの例は私文書に類する例だったが、福沢は公文書でもこれに類する 話を残している。 適塾への留学を中津藩に届ける際、「蘭学修業」と書くと前 例がないので藩庁が認めてくれないと知ると、白々しくも医者である緒方洪庵 のところへ「砲術修業」に出かけるという、前例に則した願書を出すことに、 何の拘泥もしないのである。 名分でなく、実が取れればそれでよいというこ とだ。 福沢はこの逸話で、名分ばかりを重んじ実益を軽んじる日本人の倫理 観を暗に批判しているともいえるだろう。

コメント

_ 齊藤 忠邦 ― 2019/11/25 21:20

九州場所の優勝者の白鵬の限界。終盤戦で遠藤との取り組みがあったが、酷い内容であった。いつもながらの右手での相手の顔への一発、続いて顔面へのひじうち、続いて再び顔面一発とひじうち。白鵬がやったことは遠藤の顔を集中的に“叩いた?殴った?”だけである。遠藤は鼻血を出して、倒れ込んだ!白鵬の余程の“恨み?”があったのか?と、思わざるを得なかった。怪しからんのは、試合後の八角理事長の白鵬擁護の発言であった。嘗て、貴ノ花が反旗を翻して不発に終わって以来、誰もが理事長と白鵬の「相撲でない相撲」を止められない。おかげで、翌日、翌々日の阿炎、御嶽海共に顔をやられないように、自ら土俵を割った感じで、相撲をしなかった!流石、最終日の貴景勝には、既に左目周りがどす黒く出血をしているから、顔をたたくわけにはいかず、立つ気のない一回目の仕切り、仕切り直し後はフライングして有利に組み、押し出せば出せるのに“無理な四つ相撲”を長く見せて、意味のない時間をかけて押し出した。
横審で山内さんが苦言を呈したというが、理事長が変わらない限り
白鵬の傍若無人は変わらないと思う。評論家の舞の海も苦言を呈したが、後は誰もいない。
朝青龍の全盛期は価値相撲を派手に見せて「相手を持ち上げて背中から叩き付けていた」が、白鵬の行動も将に同じ。
大砂嵐が「かちあげ」で少し星を稼いだ時には、直ぐに「かちあげ」中止があったと聞く。
注意されているのに「直さない本人と理事長」は即刻免職にしたい。
阿炎が逃げて土俵外に出たのは、かえって面白かった。
白鵬に顔を叩かれて、叩き返すことが出来るのは玉鷲だけだが、この人が元気に白鵬に対峙する場所を次回期待したい。

_ 轟亭(齊藤忠邦さん) ― 2019/11/26 11:00

 ブログにコメントを有難うございます。 「伝えたいことが伝わり、
人を動かす文章」とは、上手い所にコメントを付けたものだと思いました。
 白鵬も、優勝インタビューで、三本締めや万歳三唱をしなかったので、
批判を気にはしているのだと、思います。 全盛期の力はなく、張り差しや
かち上げをしないと、勝てないとわかっているのでしょう。 私は大相撲
のチケット抽選に外れるたびに、「八角理事長が悪い」と言っています。
 メールアドレス、変わりましたか?

_ 齊藤 忠邦 ― 2019/12/04 21:12

ご返事をありがとうございました。覗くのが遅くなりご返事も遅くなりました。すみませんでした。メールアドレスは上記したものと同じです。、

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック