「戦後復興期の慶應義塾の気概」2019/05/20 07:28

 『三田評論』5月号の特集、そして山内慶太慶應義塾大学看護医療学部教授 の「春秋ふかめ揺ぎなき――戦後復興期の義塾の気概」である。 山内慶太さ んは、義塾社中の人達はどのように敗戦後の新しい時代を迎えたのか、昭和20 年代前半の塾の人達の意識、いわば三田の空気を考える。 そして、小泉信三 が思い描いた新しい時代の社会の姿、皇室の姿が、小泉のみに特別なものでも、 時勢への対応として考え出したものでもなく、もっと自然なものであったこと を理解するのだ。

 幼稚舎の教諭であった渡辺徳三郎は、「あの当時、義塾に関係した人は誰でも、 敗戦はいやなことであったが、それによって極端な国家主義がとりのぞかれ、 義塾本来の精神が活動できることをうれしく感じたことと思う」、「終戦になっ たからと言って、自分を急角度にかえなければ、とは思いませんでしたし、む しろ、福澤先生の教育を公に実現出来る時が来たと感じました」と書いている。

 その前の時代、昭和10年代には次第に、「福澤思想抹殺論」が出回り、慶應 義塾は西洋の自由主義を日本に入れた福澤諭吉の学校として、言わば国賊のよ うに見られるようにもなっていた。 福澤の著作も、検閲で削除を求められ、 例えば昭和12年、大学予科の副読本『福澤文選』を刊行すると、その中の『帝 室論』が検閲に引っかかり、再版以後他と差し替えた。 その状況を、富田正 文は後(昭和25年)に、「我が国民に人権の尊厳を教え、自由の理を説き、独 立の大義を示し、民主主義の大道を打開してくれたこの巨人を、小賢しげなし たり顔で、誹謗し罵言し攻撃する者が横行しまたその尻馬に乗るものが輩出し ていた間に日本の運命は急坂に石が転ずるような勢で顚落して行った。そして、 やっと気がついて、改めてその真価を見直そうとしたときには、福澤を始めと して幾多の先人が営々たる辛苦を以て築き上げた日本は既にもとの振り出しに 戻ってしまっていたのである」と記した。

 敗戦後、国の行方を定める事が難しかった時に、首相の吉田茂が頼った人の 中に義塾関係者が少なくなかった。 小泉信三、板倉卓造、永田清、槇智雄、 そして吉田内閣で文部大臣を務めた高橋誠一郎。 高橋の在任期間は、昭和22 年1月31日から吉田内閣が総辞職した5月24日までのわずか4か月だったが、 その間に教育基本法、学校教育法の公布・施行という戦後の新しい教育の基礎 を築いた。 義務教育を小学校6年間から小中9年間にする六・三制の実施に も漕ぎ着けた。 文部省職員への就任の挨拶で、高橋誠一郎は「福澤先生及び 慶應義塾の先輩たちは勇敢に教育上の官僚主義と戦を交えて参ったのでありま すが、然しながら、ついに後継続かず、結局におきまして、軍国主義、超国家 主義ばっこの世を見るに至らしめまして、(略)まことに失われたる教育史上の 六十年真に惜しむべしであります」、そして「この学塾が永年主張し来つた独立 自尊主義の教育を実際に施すべき時期の到来したことを確信し、みずからはか らず、この大任を受諾した次第であります」と述べた。

 昭和22年の創立90年記念式典の式辞で、潮田江次塾長は「慶應義塾は常に あくまでも民間において、国民に伍してその独立自尊を唱道し実践してまいり ました。国民の間に封建思想を根絶やして、独立自尊の風を植えつけようと率 先力を尽しました。官権軍閥の力と闘って、自由民権のために闘ってまいった のであります」、そして、日本が「民主国家としての更生の第一歩を踏み出し」、 新憲法と教育基本法には、塾が主唱してきたものが盛られていると指摘した。

 山内慶太さんは、このように見てくると、昭和20年代前半の塾の人達の気 概は、社会の価値の基準が大きく転換する中にあって無理にひねり出したもの ではなく、福澤先生の時代からの一貫した軸があって、それがそれぞれの心の 中に自然に備わっていたことがわかる、まさに塾歌の「春秋ふかめ揺ぎなき」 である、というのだ。

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