「「三種の神器」の確保が第一」2020/05/09 06:54

 原武史さんの『昭和天皇』(岩波新書)の第4章「戦争と祭祀」に、「「三種 の神器」の確保が第一」という節がある。 太平洋戦争末期、昭和天皇が戦争 を終結させようとした究極の目的は、「三種の神器」の確保にあった、というの である。 1945(昭和20)年7月25日の『木戸幸一日記』と『昭和天皇独白 録』には、それぞれ次のような記述がある。

 「爰(ここ)に真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を 全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室 も国体も護持(し)得ざることとなるべし。」(『木戸幸一日記』下)  (馬場記…「象徴」という言葉が、ここに出て来るのに驚く。やがて新しい 日本国憲法で「象徴」となるのは天皇だから。第一条「天皇は、日本国の象徴 であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総 意に基く。」)  「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、 神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難 しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」(『昭 和天皇独白録』)

 ここには明らかに、東宮御学問時代に(昨日書いた)杉浦重剛と白鳥庫吉か ら受けた教育の影響が見られる。 天皇は杉浦から、「三種の神器」の重要性を 学ぶとともに、十代のうちに歴代天皇の陵を参拝することで、「百二十四代」の 天皇であることを実感するようになった。 天皇がこだわった「国体」の護持 というのは、「万世一系」の皇室を自分の代で終わりにしてはならないというこ とであり、国民の生命を救うのは二の次であった、と原武史さんは厳しく指摘 している。

 原武史さんは、さらに、こう書く。 敗戦直後に天皇は、日光にいた皇太子 にあてて手紙を書き、「今度のやうな決心をしなければならない事情」について、 「戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければな らなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」と 説明している(高橋紘『象徴天皇』岩波新書、1987年)。 「三種神器」が一、 「国民」が二という順序は変わっていない、と。