日本人と世界、福沢と脱亜論2020/05/24 07:27

 『歴史秘話ヒストリア』「福沢諭吉センセイのすすめ」の[エピソード3]日 本人と世界、福沢と脱亜論。 『学問のすゝめ』では、世界各国の人は平等で 情は相同じで、アフリカの土人の意見も聞かなければ、といっていた福沢に、 「脱亜論」という論説があり、朝鮮と清国、「亜細亜東方の悪友を謝絶する」と ある。 これをどう考えればよいのか。

 日本が開国し明治維新を迎えた後、朝鮮も1876(明治6)年に開国したが、 日本のような近代化に関心を持つ開化派と、守旧派が対立していた。 1881(明 治14)年朝鮮政府が日本に派遣した使節団の随員2人を、慶應義塾は留学生と して受け入れた(近代日本初の海外留学生)。 福沢には朝鮮への関心と、その 近代化の願いがあった。 1883(明治16)年には、開化派の金玉均の仲介で、 さらに62名の留学生が来日した。 福沢は、西洋からいろいろと押し付けら れる東洋にとって、「一身独立して一国独立」、個人の教育が出発点となって国 が変わっていくことが重要だとして、そういう道筋を朝鮮にもつけようと考え ていた。

 ところが1884(明治17)年12月、甲申事変が起こり、開化派のほとんどが 殺害され、その中には留学生も数多くいた。 1885(明治18)年3月16日付 『時事新報』社説「脱亜論」が書かれる。 「心において亜細亜東方の悪友を 謝絶する」という「脱亜論」は、日本のアジア侵略を後押ししたとして、福沢 批判に使われる。 都倉武之准教授は、こう述べる。 「脱亜論」は戦後に発 見されたもので、タイトルがセンセーショナルなために、批判の対象になった が、論説発表当時は政治的にも、国民世論にも、大きな影響を与えたものとは 言えない。 当時の国際情勢を考えると、清国は甲申事変を日本の陰謀だとし て国際社会に大きく宣伝した。 福沢は論説で、日本を敵視しないでくれと、 国際社会に訴え、日本のダメージを小さくしようと考えたのではないか。 甲 申事変により日本に亡命した金玉均を福沢はかくまい、その人物をぜひ日本の 総理大臣にしてみたいと評価した。

 日清戦争後、朝鮮から清国の勢力が一掃され、1895(明治28)年慶應義塾 は200名の留学生を受け入れた。 福沢は、まず三田演説館を見せ、「自由の 気風は多事争論の内にあり」、教育によって人を変えてゆくことができる、「一 身独立して一国独立」は朝鮮でもできるはずだと、説いた。 留学生たちは、 官僚、実業家となって国を支えた。 「今昔を察し、時勢に適合し、その両端 を執りて、後生を教導し」と、福沢への敬愛を込めた、留学生の回顧談にある (大朝鮮留学生親睦会会誌より)。

 19歳で飛び出した故郷中津だったが、『学問のすゝめ』のあとがきに、中津 に学校を開くについて学問の趣意を記して「同郷の朋友へ示さんがため一冊を 綴り」とある。 現在、中津では毎年2月に「諭吉かるた」大会が開催されて いるそうだ(服部禮次郎さん作の「諭吉かるた」だろうか)。 『学問のすゝめ』 は、世界中の言語に翻訳されている。

 福沢は最晩年、1900(明治33)年福沢の精神を代表する言葉「独立自尊」 を含む「修身要領」をつくったが、その26条には「他国人を蔑視してはなら ない」とある。